ずに、このままどこかへ蒙塵《もうじん》してしまうつもりだが、なんとしても心がかりなのは、あちらへ残してきた調査資料で、長年の努力の結晶をあのままあそこへ放っておくわけにはゆかないから、田舎にいた甥がとつぜん叔父を訪ねてきたていにでもして、しばらく、わたしの部屋で寝泊りし、ゴイゴロフに覚《さと》られぬように、折を見て少しずつ持ち出してきてもらえまいか、というのだった。
先生は、丸まっちい肩を昂然《こうぜん》と聳《そび》やかすようにしながら、
「ねえ、そうでしょう。退歩説の実例を挙げるために、わたし自身が殺されるのでは、これぁイミないですからねえ!」
といった。
二
巴里の北の町はずれ、ラ・ヴィエットの市門《ポルト》からプウル・ヌーヴのほうへ行く町角に、※[#「木+眉」、第3水準1−85−86]《なげし》にニスで「洪牙利亜兵《ロングロア・ヴェール》」と書きつけた、安手な一品料理店《プラ・ド・ジュール》がある。
これが、石亭先生いうところの「本郷バー」である。少々、舌ッ足らずの石亭先生が、「ロングロア・ヴェール」と発音すると、これが、どうしても「本郷バー」としか聞えな
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