る。どうだ、はっきりしたところをぬかせ。わたしは、顔に、ちょっとこう凄味《すごみ》をつけましてねえ、ニヤッと笑ってみせたんです。だいぶむかしのことですが、高等学校で、シェークスピアの『アントニーとクレオパトラ』の英語劇を演《や》ったとき、わたしはクレオパトラを演じまして全校を悩殺したことがあるんだから、そういうほうには少々心得があるのです。……さて、そういう凄い顔をして、わたしがいったい何を言ったと思います。……それはモノによるねえ。洒落《しゃれ》や冗談で極東《エクストレーム・オリヤン》からはるばる流れて来たわけじゃないんだ。それを承知で持ちかけるんだろうな。……と言っておいて、ゾクッと慄《ふる》えあがりました。眼が眩《くら》んで、もう少しで酒呑台《コントアール》のほうへよろけて行くところでした。……いや、はや、実にどうも、慨歎《がいたん》に堪えんことです。するとゴイゴロフは、ひどく頼母《たのも》しそうな顔をして、おお、そうか。見そこなってすまなかったなァ。おまえさんがそんな|偉ら方《マジョール》とは知りませんでしたよ。……言葉つきまで急に丁寧になって、……もっともらしい顔をしてしちめんど臭い本なぞを読んでるが、どっちみちそんななァぼくよけ[#「ぼくよけ」に傍点]だろうと睨《にら》んでいたんでさァ。ところで、あんたがそういうひとであれば、これゃア、いよいよもってかたじけねえんです。その辺の|がらくた《クレアチュール》を引っ張って行くのとわけはちがうんだから、いっそ弾みがつきまさァ。……と、といったぐあいに、調子よくトントンと話が進んで、とうとう、さっき言ったような破目になってしまったんです」
この小心な石亭先生が、どんなようすで盗っとと渡り合ったか、どんな経緯《いきさつ》で抜き差しならないことになったか、その辺のようすが眼に見えるようだ。思うに、石亭先生は、例の向う気から、大風呂敷をひろげた手前、否応なしに盗人の先陣をうけたまわることになってしまったのらしい。
先生の訪問の目的はこうだった。
今になって破約をしたら、どっちみち、只ですむわけはない。向うとしては、場所まで打ち明けてしまったのだから、わたしが変心したと知ったら、たぶん生かしてはおくまい。あの気狂いじみた、殺伐な男のことだから、その危険は充分にある。大人は豹変す、の筆法で、わたしは「本郷バー」へ帰ら
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