犂氏の友情
久生十蘭

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【テキスト中に現れる記号について】

《》:ルビ
(例)蒼《あお》い

|:ルビの付く文字列の始まりを特定する記号
(例)蒼|褪《ざ》めた

[#]:入力者注 主に外字の説明や、傍点の位置の指定
   (数字は、JIS X 0213の面区点番号、または底本のページと行数)
(例)磅※[#「石+(くさかんむり/溥)」、第3水準1−89−18]
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      一

 山川石亭先生が、蒼《あお》い顔をして入って来た。
「どうも、えらいことになりました」
 急々如律令《きゅうきゅうにょりつれい》といったていで椅子に掛けて、ぐったりと首を投げ出している。
 スパゲティを牛酪《バタ》で炒《いた》めている最中で、こちらも火急の場合だったが、石亭先生の弱りかたがあまりひどいので、肉叉《フゥルシェット》を持ったまま先生のほうへ近づいて行った。
「先生、どうしました。ひどく蒼い顔をしていますね」
「実にどうも、二進《にっち》も三進《さっち》もゆかないことになって……」
 先生はうっすらと汗をかいて、両手の中で手巾《ムウショアール》をごしゃごしゃにしたり、引っ張ったりしている。
「ほうらね。だから、言わないこっちゃない。……美人局《つつもたせ》ですか?」
 先生は、今度は手巾《ムウショアール》の端を口に銜《くわ》えて、手で引っ張る。田舎芝居の新派の女形《おやま》が愁嘆するような、なんとも嫌らしい真似をする。もっとも、先生は夢中になっているので、自分では気がつかない。
「いや、もっと物騒なやつなんです。……美人局のほうなら、これでも、どうにか切り抜ける自信があります」
 先生は、口から離した手巾《ムウショアール》を禿げ上った顔のほうへ持ってゆく。
「実は、盗っとに誘われましてねえ」
「盗っとが何を誘ったのです」
 先生は、手で煽《あお》ぐようにして、
「いや、そうじゃないんです。つまり、盗っとに行こうと誘われたんです」
「いらしたらいいでしょう。……巴里《パリ》の下層社会《ゾニェ》の人情風俗をうがつために、わざわざあんなところに住んでいらっしゃるんだから、そこまで磅※[#「石+(くさかんむり/溥)」、第3水準1−89−18]《ほうはく》しなければイミをなさんでしょう」
 先生は、あッふ、あッふ、と泳ぎ出して、
「じょ、じょ、冗談を言っちゃいけない。そんな
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