なりますからねえ。むこうの目的はそこなんだと思うんです」
「はっきりお断りになれなかったんですか」
先生は、悩ましそうな溜息《ためいき》をついて、
「それが、そう簡単にゆかぬわけがあるのです。……どうも、すこしばかりいい加減な相槌を打ちすぎたようです。……それに、それとなく、油を掛けたようなところもあったようで……」
「あなたともあろう方が、盗っとを煽《おだ》てるなどというのは、よくないですな」
「たしかに、感興にまかせて深入りしすぎたようです。しかし、これも、研究に対するわたしの素朴な精神昂揚《エフクタルザシォン》によることで、それについては、みずから少々慰める点もありますが、実際問題のほうは、二進も三進もゆかないところへきているんです」
「石亭先生、あなた、まさか、承諾したんじゃないでしょうね」
先生は、叱られた子供のように身体を縮めて、
「……じつは、……承諾したんです」
「これは、驚きました」
先生は、しょんぼりと顔を上げて、羊のような優しい眼でこちらを見上げながら、
「わたしとしては、どうにも、止むにやまれん次第だったんです。……この辺の機微は、くわしくお話しなければご諒解を得ることができまいと思いますが、かいつまんで申しますと、だいたい、こんな具合だったんです。……今日の昼、階下《した》の土壇《テラッス》で飯を食っていますと、ゴイゴロフという肺病やみの露西亜《ロシア》人が、わたしのそばへやって来て、オイ、二階の先生、景気はいいか、というから、いや、どうもこのごろはシケでとんと上ったりだ、と答えますと、ゴイゴロフは、そいつは気の毒だ。なア、禿頭、そういうことなら、ちょいとウマイ話があるから一口乗せてやろうか。とんでもなくウマイ話なんだぜ。そこで、わたしが、けっこうだねえ、といった。……はなはだ怪《け》しからんことですが、この辺のことは、ああいう社会では、いわば日常の挨拶のようなもので、こんなことをいちいち気にしていたんじゃ、ああいう区域《カルチェ》には一日だって住んでいられない、わたしにすれば、そういうつもりだった。ところが、ゴイゴロフのほうは、ひどく乗気になって、じつは、ちょっとした経緯《いきさつ》があって、おまえのようなもっともらしい顔をした禿茶瓶《はげちゃびん》の相棒《コバン》がひとり欲しかったんだ。おまえにその気があるんなら、いい割をくれてや
前へ
次へ
全16ページ中4ページ目
小説の先頭へ
文字数選び直し
久生 十蘭 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ
登録
ご利用方法
ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング