ずに、このままどこかへ蒙塵《もうじん》してしまうつもりだが、なんとしても心がかりなのは、あちらへ残してきた調査資料で、長年の努力の結晶をあのままあそこへ放っておくわけにはゆかないから、田舎にいた甥がとつぜん叔父を訪ねてきたていにでもして、しばらく、わたしの部屋で寝泊りし、ゴイゴロフに覚《さと》られぬように、折を見て少しずつ持ち出してきてもらえまいか、というのだった。
 先生は、丸まっちい肩を昂然《こうぜん》と聳《そび》やかすようにしながら、
「ねえ、そうでしょう。退歩説の実例を挙げるために、わたし自身が殺されるのでは、これぁイミないですからねえ!」
 といった。

      二

 巴里の北の町はずれ、ラ・ヴィエットの市門《ポルト》からプウル・ヌーヴのほうへ行く町角に、※[#「木+眉」、第3水準1−85−86]《なげし》にニスで「洪牙利亜兵《ロングロア・ヴェール》」と書きつけた、安手な一品料理店《プラ・ド・ジュール》がある。
 これが、石亭先生いうところの「本郷バー」である。少々、舌ッ足らずの石亭先生が、「ロングロア・ヴェール」と発音すると、これが、どうしても「本郷バー」としか聞えない。先生は世事に疎《うと》いほうだから、いっこう気づかれぬ模様だったが、ある時、その多少の諧謔《かいぎゃく》味のあるゆえんを説明すると、石亭先生は、やにわに膝をうって、
「それァ、いいですな。今度から、本郷バーと呼ぶことにしましょう」
 と、ひどく勇み立った。
 ちょうど夕食|刻《どき》で、悪しつッこい玉菜《キャベツ》の羹汁《スープ》の臭いがムウッと流れ出してくる。
 もっさりした棉紗のカーテン越しにおずおずと内部《なか》を覗《のぞ》き込んで見ると、ジメジメした土間にじかに食卓《テーブル》を置いた横長の部屋で、「望郷《ペペ・ル・モコ》」に出てくる悪党《フィルウ》そのままの、ゾッとするようなじだらくな恰好をしたのが二十人ばかり、何か大きな声で叫び交しながら、乱雑極まる食事をしている。
 いずれも鳥打帽の横ッかぶり。血腸詰《プウダン》やら、河沙魚《グウジョン》の空揚げやら、胎貝《ムウル》と大蒜《にんにく》の塩汁、豚の軟骨のゼラチン、犢《こうし》の脳味噌を茹《ゆ》でたやつ、……市中の料理店の献立表《ムニュウ》ではあまりお眼にかかれぬような怪奇なものを恐れ気もなく食っている。なんでもない、ちょ
前へ 次へ
全16ページ中6ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
久生 十蘭 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング