告げる祝賀の合図だった。その朝。ポチョムキンは、突然、乱入して来た十名ばかりの反乱軍の士官によって、寝台の上で射殺されてしまった。
 反乱軍のこの唐突な背反の動機は、ポチョムキンが、王党の、参謀本部附武官を威迫して、王女の自動車を狙撃させた陰険なからくりが士官の遺書から暴露したためだった。形勢は、一変した。残るところは長年にわたる両家の軋轢緩和に対する問題だが、国民の意見の帰趨はだいたいにおいて、両家の和合を希望するほうに傾いていたので、枢密院と政府の機構の中から反王党派の現勢力を逓減させることと、ステファン五世の王甥イヴァン・チェルトクーツキイをエレアーナ王女の女婿に迎えることの、この交換条件によって、両家の和議は、急速に結ばれることになったのである。
 竜太郎は、一種惘然たる気持で、この急変な推移を眺めていた。
 翌日、ガリッツァ・ホテルから王立病院に移され、ここで鄭重な看護を受ける身になった。寸暇もない多忙な時間をさいて、イゴール・アウレスキーが、例の温容を湛えながら、毎日一度、見舞いにきた。
 最初の日、老枢密顧問官は、竜太郎の問いかけを待たずに、限りない喜色を浮べながらいった。
「同志《モン・ナミ》……あなたのお友達は、安全無事に王宮にいられます」
 竜太郎は、叩頭《こうとう》した。
「有難う……」
 老枢密顧問官の心尽しへではなく、何か、ある高いただ一人のものへの、心からの謝辞だった。
 両腕と両膝関節の負傷は、思ったほどひどいものではなかった。どちらにも骨折はなく、男たちに強打された時に脱臼しただけだった。ただ後頭部の裂傷だけは、相当ひどくて、手術後の化膿を気づかわれていたが、それも杞憂ですんだ。
 三月八日、エレアーナ女王の登極が公布され二日おいて、リストリア王国の女王としての、外国使節に対する最初の謁見式が行われることになった。竜太郎は、日本留学生の代表として謁見式に招待されることになった。竜太郎が欲したのではなく、老枢密顧問官の自発的厚意によるものだった。
 竜太郎の自動車は、車寄せの正面へすべり込んだ。
 竜太郎は予想だもしなかったこの境遇《シチュアション》を、じぶんで信じかねるような気持だった。
 戴冠式の馬車のそばで、舗石を血で染め、色紙の吹雪の中へあわれな骸を横たえるはずであったじぶんが、リストリアの王女に公式に招待されて、晴れがましく謁見を許されるなどと、ただの一度でも想像したことがあったろうか。
 竜太郎は感動して昨夜はとうとうまんじりともすることも出来なかった。たとい、これで一期の別れになるにもせよ、あの心の優しい少女を荘重な玉座の上で再び見ることは、限りない嬉しさだった。
(どんなに、立派な様子をしていることだろう!)
 何ともいえぬ親身な愛情が、心をうきうきさせ、どうしても寝つかせなかった。
 自分の隣りに、端麗な面もちをした、年の若い式部官が一人乗っている。いままで、まるで作りつけの人形のように、身動きもせずに前のほうばかり眺めていたのが、車寄せへ自動車がとまると、突然、竜太郎の方へ上身をかたむけ、「女王殿下は、修道院へお入りになるご意志がおありなのです。……ご存じでしたか?」
 と、早口に、囁くように言うと、それっきり、また以前のように、口を噤んでしまった。
 金モールの制服を着た、帝政時代風《デレクトアール》の侍僕が立ち並んでいる長い廊下を、竜太郎は、式部官に導かれてしずかに歩いて行った。
 眼もあやなゴブラン織の壁掛が掛け連ねられてある広い待合室には、燕尾服や、勲章や、文官服や、大礼服《ローブ・デコルテ》が溢れるばかりにうち群れていた。典雅な会話と、洗練された社交的な身振りが、花のように揺れていた。
 謁見室につづく、見上げるように大きな楡の扉の両脇に、白い長い鳥毛のついた、金色の兜をかぶった竜騎兵が、抜剣を捧げて直立していた。
 竜太郎は、何気なく、向って右側の竜騎兵の顔を見ると、思わず驚異の叫びを上げた。それは、いつかの日、写真の献辞を読んでくれたヤロスラフ少年だった!
 竜太郎は、われともなく、その方へ進んで行って、
「ヤロスラフ君」
 と、声をかけた。
 ヤロスラフ少年は、何事も聞かなかったように、空間の一点に視線をすえて、凝然と直立している。
 瞬きひとつしなかった。
 竜太郎は。じぶんのはしたなさが悔まれた。いかにも参ったような気持になって、もとの場所まですごすごと引き退った。
 一見、身すぼらしいほどのあの少年が、近衛の竜騎兵であったとは!……またしても、何か、得体の知れぬ不安が、ムラムラと湧き起るのをどうすることも出来なかった。突然、ある想いが頭にひらめいた。
(写真を盗んだのは、ヤロスラフ少年ではなかったろうか)
 じぶんが王女の写真を持っていることを知ってるのは、このマナイールでは、ヤロスラフ少年の他にはいない。そういえば、いかにもありそうなことだった。……しかし、いったい、何のために? この謎はどうしても解けなかった。
 謁見式の時間がきた。
 出御を知らせる、杖で床を打つ音が重々しく響きわたった。謁見者の群は、水でも引くように、等分に左右に別れて整列した。
 謁見式の大扉は、しずかに引き開けられた。燃えるような真紅の絨氈のはるか向う端に、天蓋をつけた王座も見え、そこには黒い差毛をした、白色の大マントをゆたかに羽織ったひとの姿が見えていた。
 竜太郎の胸の鼓動が、遽に劇しくなった。
 式部長官が、朗詠するような調子で、次ぎつぎに謁見者の名を読みあげる。
「ルドルノ・ロータル……。ミカエル・ストロエウィッチ……。イヴァン・ヴィニェット……。サア・ダグラス・バンドレー……」
 そして突然に、
「竜太郎《リュウタロ》・志村《シムーラ》……」と、呼んだ。
 前へ進むつもりなのが、どうしたはずみか、二三歩後によろけた。それから、改めてやり直した。
 竜太郎は、慇懃に頭を下げ、じぶんの靴の爪先を眺めながら、しずかに王座に向って歩きだした。
 毛の長い絨氈のなかへ、一歩ずつ足がすいとられる。まるで、雲にでも乗ってるような心地だった。この燃えるような赤い通路の両側には、ここにも、政府の高官らしい人たちが威儀を正して整列していた。
 王座までの道のりは、長かった。行けども行けどもの感じだった。知らぬ野道で日が暮れかかったようなたった一人ぼっちになったような、何ともいえぬ頼りない気持だった。間もなく、じぶんの正眼で、あの夜の※[#「藹」の「言」に代えて「月」、第3水準1−91−26]たけた少女の顔を眺めることが出来るという思いだけが、竜太郎を元気づける。
 ようやく、王座の大理石の階の第一階が視野の中に入ってきた。つづいて第二階、……第三階。竜太郎は、そこで立ち停って、低く頭をさげ、それから、さらに、一歩前へ進む。
 竜太郎は、ゆるやかに、ゆるやかに、頭を上げる。長い裳裾の下から覗き出した金色の靴の爪先が見える。気が遠くなるような一瞬だった。
 竜太郎の胸は、大きく波打ち、心臓はいまにも肋骨の間から飛び出そうとでもするように、激しく躍り立つ。
(この一瞬のために!)
 この一瞬のために、このバルカンの国へ、はるばる巴里からやって来たのだった。この長い間の狂熱、やるせない嗟嘆、感傷も、憧憬も身もほそる恋情も、何もかもひっくるめて、一瞬の後に、酬いられようとしている。
 じぶんの腕の包囲のなかにとり込めて、睦言し、涙を流し、愛撫し、幾度も誓ったあの夜の少女は、いま、じぶんと咫尺を隔てて坐っている。
 竜太郎は、恍惚たる情感に身も心も溺らせながら、また、ゆるゆると顔をあげてゆく。
 膝が見える。それから、白い、小さな手が見える。デコルテの胸に金剛石を鏤めた大星章が煌めいている。美の資源ともいうべき、楕円形のかたちのいい顎が、見える……「あの夜の少女」だった!
 心を吸いとるような、深い黒い瞳。……しずかに、涙あふらした、あの眼だった。早咲の真紅の薔薇が、そこに落ち散っているような、美しい唇。……それは、あの夜、いつまでも、かわらないと誓ってちょうだい、と叫んだ、あの唇だった。寛濶な新月の眉も、清純な頬の色も、何もかも、あの夜のままだった。
(ああ、とうとう……どんなに、逢いたかったか!)
 胸もとに激情がこみ上げてきて、あやうく、そう、叫び出すところだった。
 ところで、どうしたというのだろう。女王は、遠いところを眺めるような、ぼんやりとした眼付きで、ほのぼのと竜太郎の顔を見返している。どういう感情の動きも、心理の反射も、そこには見られなかった。
(女王は、おれを、忘れている)
 あのようなこまやかな「時」のあとで、その相手を見忘れるなどということがあるべきはずはない。……しかし女王の顔は、初見の人を眺める、あの冷淡な「他人の顔」だった。
(女王は、まるっきり、じぶんを知らないのだ!)
 竜太郎の心は、この突然の混乱で、支離滅裂になってしまった。じぶんがいま、何を考えているのか、てんでわからなかった。
 謁見室の入口で[#「入口で」は底本では「人口で」]、式部長官が、次の謁見者の名を披露している。
「ニコラス・ウォロスキー。……カルニヤ・ブレビッグ……」
 もう御前を退出しなくてはならない。
 しかし、どうしても、これでは、諦めかねた。竜太郎は、軽く、半歩前へ歩み出ると、女王の眼を瞶めながら、必死のいきおいで、囁いた。
「女王殿下、もう、お忘れですか? 私は、あの夜、サヴォイ・ホテルの土壇《テラス》でお目にかかった、志村竜太郎です。志村……」
 女王の表情は、風のない日の沼のように静まりかえっていて、小波ひとつ立たなかった。どのような、感情の翳も……。
 はじめて、了解した。
(忘れたふりをしているのだ!)突っ放されてしまった。……この、感じは、すこし、つらすぎた。(やはり謁見式なんかにやってくるんじゃなかった。……はじめから、わかりきっていることを……)
 次ぎの謁見者の跫音が、すぐじぶんの後に迫って来た。もうどうすることも出来ない!
 竜太郎は、最敬礼をすると、低く頭をたれたまま後退りに三歩あるき、それから、耐えがたい憂愁を心に抱きながら、しおしおと、炎の道を戻り始めた。
 待合室《サール・ダッタント》の入口のところで、文部次官が、追い縋って来た。竜太郎の腕をとって部屋の片隅に引いて行きながら、すこし気色ばんだ、圧しつけるような声でいった。
「ムッシュ・シムラ。……三月二五日の、戴冠式の前日のレセプションのこともありますから、ご注意までに申し上げるのですが、女王殿下に言葉をお掛けするようなことは、絶対に、慎んでいただかなければ……」
 竜太郎は、遣る瀬ない憤懣の情から、思わず鋭い声で訊きかえした。
「お祝いの言葉を言上することも、慎まなければならないのですか」
 文部次官は、うなずいた。
「たとえ、どんなことがらでも!」
「それは、なぜ?」
 文部次官は、竜太郎の耳に口をあてて、囁いた。
「女王殿下は、唖者であられるのです」

 それから、三時間ほどののち、竜太郎は、ガリッツィヤ・ホテルの長い廊下を歩いていた。黄昏の色が濃くなって、廊下の隅々が、おんどり[#「おんどり」に傍点]と闇をたたえていた。
 ソルボンヌ大学のダンペール先生のところで、写真の主がリストリア国の王女だと知ってから今日まで竜太郎の胸のうちに育まれていた夢想も、希望も憧憬も、一挙にして跡形もなく、消え失せてしまった。……竜太郎の夢は、死んだ。
 今日まで、ひとすじに憧れわたったその人は、縁もゆかりもない、まったくの別人だった!
 竜太郎は、自嘲の色をうかべながら、こんなふうに、つぶやく。
「おれは、いったい、何という、夢をみたんだ」
 片腹いたくもあり、滑稽でもあった。竜太郎は、ためいきをつく。
「また、始めからやり直さなくてはならない」
 竜太郎は、悒然とした面持でじぶんの部屋の扉の前に帰りついた。
 ふと、妙なことを発見して、厳しく、眉をひそめた。どうしたというのだろう。たしかに鍵をかけて出た
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