墓地展望亭
久生十蘭

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【テキスト中に現れる記号について】

《》:ルビ
(例)喫茶店《キャッフェ》

|:ルビの付く文字列の始まりを特定する記号
(例)|Belle−vue de Tombeau《ベル・ビュウ・ド・トンボウ》

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   (数字は、JIS X 0213の面区点番号、または底本のページと行数)
(例)※[#「藹」の「言」に代えて「月」、第3水準1−91−26]
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 巴里の山の手に、ペール・ラシェーズという広い墓地があって、そのうしろの小高い岡の上に、≪|Belle−vue de Tombeau《ベル・ビュウ・ド・トンボウ》≫という、一風変った名の喫茶店《キャッフェ》がある。
 訳すと、「墓地展望亭《ぼちてんぼうてい》」ということにでもなろうか。なるほど、そこの土壇《テラッス》の椅子に坐ると、居ながらにして、眼の下に墓地の全景を見渡すことが出来る。
 当時、私は物理学校の勤勉な一学生で、行末、役にも立たぬ小説書きになろうなどとは夢想だにしなかったので、未来の物理学者を夢みながら、実直に学業をはげんでいた。
 私が、繁々《しげしげ》とその喫茶店の土壇に坐るようになったのは、その店が学校の通路にあったという都合ばかりではなく、「墓地展望亭」というその名の好尚《このみ》の中に、なんとなく、物佗びた日本的な風趣のあることを感じ、やるせない郷愁をなぐさめるよすがにこの店を撰んだわけである。
 そういう目的のためには、「墓地展望亭」はまず申し分のない場所だった。この店の客は、いずれも黒ずんだ服を着けた、物静かなひとたちばかりで、いま、花束を置いてきたばかりの墓に、もう一度名残りを惜しむためにここへやってくるのである。
 悲しげな眼ざしを、絶えずそのほうへそよがせながら、しめやかに語り合う老人夫婦。卓《テーブル》に頬杖をついて涙ぐみながら、飽かず糸杉の小径を眺めているうら若い婦人。それから、父や母のそばでしょんぼりしている子供たち。
 万事、そういう調子で、ほかの喫茶店のような喧騒さは、ここにはほとんどなく、いつも、ひっそりとしめりかえっていた。
 ここの常連の中で、特別に私の心をひいた一組の若い夫婦づれがあった。男性のほうは、三十五六の、端麗な顔をした日本人で、女性のほうは、スラブ人とも見える、二十歳をやっと越えたばかりの、この世のものとも思われぬような美しい面ざしの婦人である。
 二人は、毎月、八日の午後四時頃になるとやって来て、第二通路の角の大理石の墓碑に花束を置き、一ときほどここの土壇《テラッス》で休んでは、睦まじそうに腕を組んで帰ってゆく。
 ある夏の夕方、私は墓地の中を気ままに散歩していたが、ふと、あの二人がどういう人の墓に詣でるのかと思い、廻り道をしてその墓のあるところへ行って見た。
 それは、カルラロの上質の大理石に、白百合の花を彫った都雅な墓碑でその面には、次のような碑銘が刻まれていた。

[#ここから2字下げ]
リストリア国の女王たるべかりしエレアーナ皇女殿下の墓。――一九三四年三月八日、巴里市外サント・ドミニック修道院に於て逝去あらせらる。
[#ここから3字下げ]
神よ、皇女殿下の魂の上に特別の御恩寵を給わらんことを、切に願いまつる。
[#ここで字下げ終わり]

    一

 もう、そろそろ冬の「社交季節《セエゾン》」が終りかけようとしているので、ホテルの広い食堂には、まばらにしか人影がなかった。
 志村竜太郎は、海に向いた窓のそばの食卓に坐って、ぽつねんとひとりで贅沢な夕食を摂《と》っていた。この長い半生、たいていそうであったように。
 地中海の青い水の上に、松をいただいた赤い岩がうかんでいる。いま長い黄昏が終り、夕陽の最後の余映が金朱色にそれを染めあげる。
 竜太郎は、沈んだ眼ざしでそれを眺めながら、口の中で、こんなふうに呟く。
「おれは、明日、あそこで、死ぬ」
 ホテルの小艇《キャノオ》が、あの岩のあたりまで漕ぎ出してゆく。一発の銃声が反響もなく空に消え、ひとつの肉体が軽々と空間の中に落ちこむ。
 青い水をしずかにひらいて、いのちのない骸《むくろ》を受け取り、それを静寂な海の花園に横たえるために、ゆるやかに、ゆるやかに、おし沈めてゆく……
「明日、おれは……」
 なぜ、明日でなくてはいけないのか。
 それは、こんなにも自分を困惑させ、こんなところへ押しつめてしまった人生に対して、最後にこちらで存分に愚弄し、焦らしてやりたいと思うからである。
 死が待ちかねて、海から手をあげて催促する。……そんなに急ぐにはあたらない。もうしばらく、そこで待っていろ。どっちみち、長い時間ではない。明日まで、明日まで……。
 竜太郎はソルベットを啜《すす》りながら、自分の最後の瞬間を味わうために、眼をとじる。
 岩が蒼黝い影をおとす海。……拳銃の上にチカチカとはねかえる明るい陽の光。……煙のように空に噴きつける血しぶき。……それから……。
 竜太郎は孤児だった。父は巨額の財産を残して早く死に、竜太郎は幼いうちに慈悲も憐憫もない冷淡な金の中に、たったひとり取り残されることになった。
 窮極のところ、金の圏囲内で行われることは、何によらず、そう大して面白味のあるものではなく、放蕩にしろ濫費にしろ、やるだけやって見ると、あとには手のつけられない虚無感と倦怠が残るだけのことである。
 愛情……は、人間の愛情も厚意も、竜太郎のような境遇の人間にとっては、そのまま通用しない。煤色をした懐疑を深めるのに役立つだけのことである。今迄のさまざまな経験で竜太郎は、はっきりとそれを是認した。
 竜太郎は、無味索漠たる空々しい人生の中で、誰れからも愛されるあてもなく、誰れを愛する自信もなく、長い間ひとりぼっちで生きて来た。
 だいたいに於て、こういうのを不幸な魂と言って差支えないのであろう。こういう境遇は竜太郎自身がつくり出したのではなく、知らぬ間に、嵌《は》め絵のように嵌め込まれたのに過ぎないのだとすれば、たぶん、神様も憐れと思われるにちがいない。
 竜太郎は人生に対して何の興味もなければ、何の期待もない。今となっては、生きている一日一日が、それ自体耐えられない重荷になって来た。もう、これ以上辛抱してやる必要はないと覚悟をきめたのである。……
 竜太郎は、いつもの自分の揺椅子《ロッキングチェヤ》へ行こうと思って、食堂の椅子から立ち上った。
 それは、海沿いの長い土壇《テラッス》の端にただ一脚だけ離れて置かれ、大きな竜舌蘭《アローエズ》の鉢植が樹牆のようにその周りを取巻いていて、ちょうど鴨池の伏せ場のようになっている。竜太郎は、いつも、たった一人でこの隠れ場に逃げ込み、揺椅子の上で身体を揺すりながら、誰からも邪魔をされることなく、沈思したり、海を眺めたりして暮らしていた。
 竜太郎が食堂を出て、広間の入口まで来ると、ふと、何とも言えぬほのかな香がその辺に漂っているのを感じた。
 広間の窓はみな閉じられているから、風が運んで来た花の香ではない。
 そんな単純な匂いではなかった。なにか、微妙に複合した、高貴なそのくせ、からみつくようなところもある、たとえば、蒸溜器の中で調合された媚薬の香とでもいったような、言いあらわしようもないふくよかな香気で、それが、水脈のようにあとをひきながら、ほのぼのと広間の出口のほうへ流れている。
 竜太郎は、われともなく心をときめかして、かぐわしいその水脈に乗って、吸い寄せられるようにそのほうへ歩いて行った。

 土壇《テラッス》へ出てゆくと、片かげの薄闇の中に、竜太郎の揺椅子《ロッキングチェヤ》にひとりの婦人が掛けて、しずかに海を眺めていた。黒檀《こくたん》色の海の上で、船の檣灯《しょうとう》の光が、いくつも重なり合い、ちょうど夜光虫のようにユラユラとゆれている。すこし湿った大気の中に春の息吹のような軽々とした香りが立ち迷っていて、微かな海風が起るたびに、なよなよと竜太郎のほうへ吹きつける。さきほどの微妙な香気は、この婦人からくる匂いだった。
 竜太郎は長い間、竜舌蘭《アローエズ》のそばに立ちつくして、気がついてくれるのを待っていたが、いつまでたっても、その婦人は身動きもしない。なにか、深い物思いに沈み込んでいるのらしく、すぐそばに竜太郎が立っていることに、まるっきり気がつかないふうだった。
 そのうちに、竜太郎は、どうにも辛抱が出来かねる気持になってきたので、思い切ってそのそばに進みよると、こんふうに[#「こんふうに」はママ]、声をかけた。
「たいへん、失礼ですが……」
 婦人は、ビクッと神経的に肩をふるわせて急にこちらへふりかえると、まだ夢から醒めきらぬひとのようなぼんやりした表情で、竜太郎の顔を見あげた。その頬に、涙の痕が光っていた。ようやく二十歳になったくらいの若い娘だった。
 なんという、※[#「藹」の「言」に代えて「月」、第3水準1−91−26]《ろう》たけた面ざしであろう。
 ブロンドの柔毛のような髪が、すき透るような蒼白い顔のあたりに三鞭酒色《シャンパン》の靄をかけ、その中に吸い込まれてしまうような、深みのある黒い大きな眼のうえで、長い睫毛が重そうにそよいでいる。
 なににもまして、驚かれるのは、たとえようもない貴族的な美しい鼻と、均勢のとれた楕円形《オブアール》の顔の輪廓だった。近東の古い家系の中で稀れに見られる『|美の始源《オリジン・ド・ボオテ》』という、あの高貴な顔だちだった。ロオレンスでさえも、このような※[#「藹」の「言」に代えて「月」、第3水準1−91−26]たけた面ざしは描き得なかったであろう。地上のものではなく、まさに、天上界に属すべき美であった。
 竜太郎は、ほのかな星の光の下で、このようなたぐいない美しい少女の顔を眺めながら、心の中で、呟いた。
(たしかに、今まで見たどの女性より美しい)
 しかし、そのために格別心を乱されるようなことはなかったので、沈み切った声で、もう一度繰り返した。
「失礼ですが、お嬢さん、それは、私の椅子です」
 ちょうど、そこに赤い葩《はなびら》がひとつ落ち散っているようにも見えるかたちのいい唇を、すこし開けて、竜太郎の顔をふり仰いだまま、返事もしなければ、まじろぎもしないのである。
 竜太郎は、丁寧に、もう一度くりかえした。
「あなたは、私の席に坐っていらっしゃるんです、お嬢さん」
 少女はようやく身動きした。夢のつづきをふり払おうとでもするように軽く頭をふると、
「なんとおっしゃいましたのですかしら」
 その声の中には、この世で最も清純なもののひびきがあった。
「その椅子は、私がひとりでいるために、とってあるのだともうしあげているんです」
 少女は、ゆっくりと顔をふせて、
「あら、そうでしたの。ちっともぞんじませんでしたわ、あたし」
 それで、立上るかと思いのほか、ずれ落ちていた鼬鼠《エルミン》のケープを肩に纒いつけると、のびのびと脚を伸ばしながら、落着いた声で、
「あたくしも、そうなの。……あたしも、ひとりでいるほうが好きなの」
 そして、また、海のほうへ向くと、それなり動かなくなってしまった。竜太郎は、腹が立ってきた。それで、また、ひと足進み寄ると、すこし厳しい声で、いった。
「明日からは、ご自由にお使いくださって差支えないのです。でも、今晩は……」
 少女は、こちらに背中を向けたまま、
「今晩はいけなくて、どうして、明日になれば使ってよろしいの」
「明日、私はいなくなります」
「お発ちになりますの」
 竜太郎は、低い声で、いう。
「明日、私は死ぬのです。ここの海で」
 また沈黙がつづいて、それから少女がこういう。
「じぶんで死ぬのは、なかなか勇気がいりますわ。……あたくしも、それは知っています」

    二

 アンチーブの灯台の蒼白い光芒が、海の上を手さぐりはじめる。瞬間、突堤《ジュッテエ》の腹を白く浮きあげ、よろめくように水平線の向うへ這いずってゆく。
(うるさい
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