。……何を、どう知ってるというんだ。なんでも、いいから、早くどこかへ行ってしまえ)
竜太郎は、不機嫌な声で、
「死ぬよりも、生きて行くほうが、もっと勇気の要る場合だってありそうですね」
「それも、ぞんじていますわ」
聞きとりにくいような低い声でそう言うと、少女は、竜太郎のほうへ白い顔をふり向けた。頬のうえにまた、涙がすじをひいていた。
(勝手に泣いていろ)
竜太郎は、大きな声を出したくなるのを我慢しながら、ゆっくりと煙草に火をつける。
少女は、あわれにも見えるような、ともしい笑顔をつくって、
「あなた、悲しいことがおありなの」
少女は、チラと眼をあげて、怒ったような顔で突っ立っている竜太郎のようすを見ると、ケープに顎を埋めて萎れかえってしまったが、ちょっとの間沈黙したのち、おずおずと、おなじことを問いかけた。
「悲しいことが、おありなの」
竜太郎は、やり切れなくなって、軽く舌打ちした。
「たいへんに、ね」
「愛情のことで?」
竜太郎は、すこし大きな声をだす。
「死ぬことにきめたから、それで、死のうと思うだけのことです。……それはそうと、あなたはずいぶん変った香水をつかっていますね、お嬢さん」
(おやおや、おれは、いったい何を言い出す気なんだ)
少女は、急に元気になって、得意らしくうなずいてから、
「そうお思いになって?」
「なんという名の香水ですか」
「名前なぞありませんのよ。あたくしだけが持っている香水なの」
(香水屋の娘なのか、こいつは)
どんな素性の娘なのか、訊ねて見たくなった。
「お嬢さん、あなたのお名は、なんとおっしゃるの」
少女は、かすかに眉のあたりを皺ませると、まるで聞えなかったように、海のほうへ向いてしまった。
「私はね、志村竜太郎というんです。……日本人。……あなたは? お嬢さん」
こちらへ、白い頸を見せたまま、消え入るような声でこたえた。
「ただ、『女』……」
(なにを、くだらない)
竜太郎は、かすかに軽蔑の調子を含めて、
「それだって、結構ですとも」
少女は吸いとるような眼つきで竜太郎の眼を瞶めながら、
「あなた、さっき、そうおっしゃいましたね。……明日になったら……」
「死ぬ。……そう言いました」
「ほんとうに、お死にになるおつもり?……あたくしに、誓うことがお出来になって?」
「あなたに、それを誓うと、どうなるというんです」
「たった、ひと言。……ね、お誓いになれて?」
「そんなことは、ごめんです。……誓おうと、誓うまいと、志村竜太郎。……三十四歳。……金利生活者《ランチエ》。……健全な肉体と精神を持ったこの男一匹が、明日、海の上へ脳漿を撒き散らしてあわれな最期をとげる。……たぶん、夕暮れ前にね。……お望みなら、ここで見物していらっしゃい」
少女が、ためいきをつく。
「あたくしも、あなたほど勇敢だったら……」
竜太郎は、返事をしなかった。
少女は、いままで鼬鼠《エルミン》のケープの下に隠していた、美しい小さな手を抜き出すと、竜太郎が指をかけている揺椅子の肱のところへそっと載せた。竜太郎は、うるさくなって、手を引こうとするはずみに、思わず指先が少女の手に触れた。それでも、少女の手は動かなかった。
「竜太郎さん……」
少女は、胸の上に顎をつけながら、ほのかな声で、叫んだ。
「……竜太郎さん」
暖かな、小さな手がしずかに這いよって来て、細い、嫋《しな》やかな指が、すんなりと竜太郎の指に絡みついた。
竜太郎は、眼を外らして、薄光りのするくろい海の面を眺めていた。
(さて、これから、どうしようというんです、お嬢さん)
明日、必ず自殺するつもりだと言い切ると、いきなりこの指が絡みついて来た。このちっぽけな頭の中で、いったい、どんな陰謀をたくらんでいるのか。……何にしても、解しかねる次第だった。
揺椅子の中で、劇しく呟きこむような声がする。振りかえって見ると、小女が声を忍ばせながら啜り泣いているのだった。
「どうしたんです」
少女は、劇しい勢いで椅子の背に頭を投げかけると、よく響く声で、笑いはじめた。
「なんでもありませんの。……竜太郎さん、あたくし、しあわせよ。……ああ、いま、どんなに、しあわせだか!」
そういうと、また、沁みるような細い声で泣き出した。
湿った海風が、二人の上を吹いて通る。
竜太郎は、なんとなく、しみじみとした気持になって、土壇に膝をつくと、少女の手頸にそっと唇を触れた。竜太郎の耳に、少女のはげしい息づかいの音がきこえた。
「この椅子に、……あたくしのそばへ坐って、ちょうだい。……しっかりとあたくしの手を握って、……なにか、お話をして、ください。……あたくし、こうして眼をつぶって伺っていますわ」
竜太郎は、少女と並んで掛けた。柳の枝のようによく撓《しな》う小さな手だった。
「……そこで、あなたの名は?」
少女は返事をしなかった。
「では、苗字だけ」
少女は、悲しそうに、首を振った。
「あなたのことは、何もきいてはいけないのですか」
「えっ、何も!……どうしても、それは、もうしあげられませんの」
そういうと、気がちがったように、竜太郎の手を自分の胸に引きよせながら、
「どうぞ、あたくしを、好きだと言って、ちょうだい」
(どの女も、どの女も、みな同じようなことを言う。……あたしを好きだっと言ってちょうだい)
「ね、……どうぞ、たったひと言でいいから……」
竜太郎は、そっと、ため息をつく。
「お嬢さん、あなた、だいすきです。……私は、あなたがどんな方なのか知らないし、お目にかかるのも今日がはじめてですが、あなたを好きになるのに、それでは不充分だということはない。……あっ、このまま、あなたと離れないですむなら……」
どんな出鱈目でも、平気で言えそうだった。
(どうせ、明日までのいのちだ。言いたいだけたわごとを吐いて見ろ)
明日までのいのち……。
もう、馴れ切ったはずのこの考えが、石のように重く心の上に隕《お》ちかかり、ひどい力で胸のあたりを締めつけた。
(あすになれば、この娘とも……)
なにか抵抗し難い、劇しい感情が、火のように血管の中を駆け廻る。
竜太郎は、われともなくそぞろな気持になって、少女の背に腕を廻すと、力任せに抱きよせた。
「ああ」
少女は、眩暈《めまい》しかけたひとのような、小さな叫び声をあげると、まるで、ひとひらの羽毛のように軽々と竜太郎の腕の中へ落ちこんできた。この小さな身体が手の囲いの中で、今にも消えてしまいそうな感じだった。……※[#「藹」の「言」に代えて「月」、第3水準1−91−26]《ろう》たけた、ほんとうに、この世のものとも思われぬようなつややかな顔を空へ向け、ぐったりと、死んだようになって、眼を閉じていた。
三
薄眼をあけて見ると、夜明けの色が、ほの青く窓を染めかけていた。
重苦しい睡気が頭のうしろに絡みつき、まだ半ば夢の中にいるような気持だった。
とつぜん昨夜の記憶が鮮やかに心の上に甦って来た。昨夜ここで……。
竜太郎は、小さな声で呼びかけた。
「眠っているの」
部屋の中は、ひっそりとしずまりかえっていて、時計の音だけが、浮き上るように響いている。
竜太郎は、そっと腕をのばして見たが、自分のとなりに誰も居なかった。
「どこにいる?」
家具が葵花色《モブ》の影を床の上にひいているばかりで、何ひとつ動くものもなかった。
竜太郎は、もう一度くりかえした。
「どこにいるんだ?」
返事がない。
竜太郎は寝台からはね降りると、窓のところへ駆けて行って鉄鎧扉《ベシン》を開け放した。まさしく、部屋の中には誰れも居ない。あわてて浴室をのぞいて見たが、そこにも、人の影はなかった。
(行ってしまった!)
竜太郎が眠っているうちに、小鳥は飛び立って行ってしまった。
竜太郎は部屋着をひっかけると、大急ぎで階段を駆け降りた。
広間で、三人の掃除男がせっせと大理石の床を洗っていた。
「鼬鼠《エルミン》のケープを着た、若い娘さんが出て行くのを見かけなかったかね」
三人が、ほとんど同時に答えた。
「見かけませんでした」
竜太郎は広間を横切って不寝番《プエユウル》の部屋へ駆けて行った。不寝番は、ちょうど寝床に入ろうとしていたところだった。
「……鼬鼠のケープね?……いや、見かけませんでした。四時ごろひめじ釣りに行く英吉利人が二人出て行っただけでした」
少女がこのホテルに泊っているのでないらしいことは、竜太郎はうすうす知っている。だまって行ってしまったとすれば、ほとんど探し出すあてはないのだった。サン・ラファエルからモンテ・キャルロまでの、この碧瑠璃海岸《コート・ダジュール》にある無数のホテルを、どういう方法でたずね廻ろうというのか、名前さえも知らないのに。
(一分毎に、あの娘は遠くなる)
気が焦ら立って来て、じっと立っていられなかった。
竜太郎は、せわしく足を踏みかえながら、
「帳場《ビュウロ》は何時に開くのか」
不寝番は、ゆっくりとニッケルの懐中時計をひき出しながら、
「まず、大体……」
とても、待っていられなかった。
「よしよし、自分で行って見る」
竜太郎は長い廊下を帳場のほうへ駆けながら大きな声で叫んだ。
「なんて馬鹿なことをしたんだ。……このくらいのことは、もっと早く気がついていなくてはならなかったんだ。……だが、どんなことがあっても、もう一度逢って見せる。……どんなことがあっても!」
帳場では、番頭がちょうどやって来たばかりのところだった。
「昨日着いた客の中に、もしか二十歳ばかりのブロンドの娘が……」
冷淡な声で、番頭が遮った。
「昨日は、お発ちになるお客さまばかりで、お着きの客はございませんでした」
「でも、昨夜、土壇《テラッス》で……」
「ご旅行の方が、ご自由にお立ち寄りになりますから」
ご旅行の方! この、ちょっとした言葉が、針のように鋭く竜太郎の耳を抉《えぐ》った。
「今朝早く、鼬鼠のケーブを[#「ケーブを」はママ]着た」
番頭は、手で遮った。
「なにしろ、手前は、たったいまここへまいったばかりでございますから、何分にも……」
(昨夜、十二時半が鳴るのをたしかに聞いた)
「では、昨夜おそく……たぶん……」
「なにしろ、大勢のお客さまのことでございますから」
竜太郎はしおしおと、自分の部屋のほうへ帰りかけた。
何とも言い表し難い、はげしい孤独の感じが、鋭く胸を噛んだ。竜太郎は、この長い間、いつでもひとりで暮らしていた。しかし、こんな寂しさを感じたのは、これが最初だった。世界中から自分ひとりだけが見捨てられたような佗びしさだった。自分の部屋の前へ帰って来て、ふと見ると、部屋の扉が半開きになっている。感動して、思わずそこで立ち止った。息苦しくなってギュッと拳を胸におしあてた。
(帰って来たんだ!)
竜太郎は喜悦の情に耐えられなくなって、勢よく扉を押して部屋の中へ走り込んだ。
空色の大きな絨氈の上に、朝日が陽だまりをつくっている。部屋の中には誰れもいなかった。
竜太郎は唇を噛んだ。そうしようとも思っていないのに、ひとりでに身体が動いて、絨氈の上にどっかりと胡坐をかいて腕組みをした。
(なるほど、こうすると、たしかに落ちつく)
ふと日本から遠く離れていることを思って、うっすらと涙ぐんだ。この、十何年にまだ一度も無かったことだった。
時計が八時をうつ。
竜太郎は、低く、つぶやく。
「今日は、いよいよ死ぬ日だ」
この部屋の窓からも、真向いに、南画のような松をのせた赤い岩が見える。地中海の青い水がはるばるとひろがっている。
「間もなく、おれは、あそこで死ぬ」
そのほうは、もう何の感じもひき起さなかった。ただ……。
(もう一度、あの娘に逢ってから死にたい)
そう思うと、矢も楯もたまらなくなってくるのだった。……
思いがけもなく、こんなことをおもい出した。
(あの匂いは、たしかに、食堂の入口にも漂っていたようだったが、あの娘がひょっ
前へ
次へ
全10ページ中2ページ目
小説の先頭へ
文字数選び直し
久生 十蘭 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ
登録
ご利用方法
ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング