はずだのに、扉が二寸ほど開いている。
竜太郎は、急に顔をひき緊めると、扉の隙間に耳を当てて、内部のようすを窺った。誰か、部屋の中にいる! 跫音を忍ばせながら、微妙に動きまわっている。
竜太郎は、一挙に扉を押し開けると、部屋の中におどり込んで、机の抽斗に跼み込んでいる男の肩の上へ襲いかかった。竜太郎の逞ましい膝頭の下で、闖入者が鋭い悲鳴をあげた。しなしなした小さな身体だった。
襟髪をつかんで、力まかせに窓ぎわまで引きずって行き、あいた片手で、窓掛を押し開けた。
ヤロスラフ少年だった!
乱れた髪を、眉のうえに垂らし、首をさげて、しょんぼりと立っている。
竜太郎は、ヤロスラフの顔を眺めていた。意外なようでもあり、また、当然のような気もした。王女の写真を盗んだのは、やはり、ヤロスラフ少年だった。
「写真を盗んでいったのは、君だったんだね、ヤロスラフ君」
ヤロスラフ少年は、かすかに、うなずいた。
「いったい、何のために?」
返事は、なかった。
「言いたまえ!」
「……」
勃然とした怒りがこみ上げてきた。ヤロスラフの肩を掴んで、
「言え! 言わないと、殺すぞ」
ヤロスラフ少年は、顔をあげた。自若とした色があった。
「それは、申し上げられません。たとい、殺されても」
みなまで、聞いていなかった。服の襟のところを引ッつかむと、跳腰で力任せに壁へたたきつけた。
ヤロスラフ少年は、激しい勢いで壁に身体をうちつけ、夜卓の上のものと一緒くたになって床のうえに落ちた。竜太郎は大股で、その方へ近づいて行った。ヤロスラフ少年は、仰向けに床のうえに長くなって、大きな眼を開けていた。竜太郎は、両手で、ヤロスラフの咽喉を攻めた。
「言え!」
ヤロスラフの顔から、スーッと血の気がひいてゆく。それでも、眉ひとつ動かそうとしなかった。
竜太郎は、根まけがして、咽喉から手を放した。何だか、急に情けない気持になって、ヤロスラフ少年をひき起して、椅子にかけさせた。竜太郎は、微笑してみせた。
「もういい。言いたくなかったら、言うな。……その方は、それでいいが、いったい、今日は、何しにやって来たんだね?」
ヤロスラフ少年が、きっぱりした口調で、こたえた。
「写真を、お返しに上りました」
意外な返事だった。呆気にとられて、何と言っていいのか、咄嗟に考えが浮ばなかった。ヤロスラフ少年は机のそばまで歩いて行き、そこの床のうえに落ちていた、白い大きな角封筒をとり上げて、無言のままで、竜太郎のほうへ差し出した。
竜太郎は、懐しいものに廻り会ったように、急いで、封筒から写真を引き出した。
同じ写真にちがいない。……が、どこか微妙に、ちがっていた。長い間肌につけていたので、竜太郎の持っていた写真は、すっかり角が丸くなっていたのに、この写真はそこへ指を当てると、ちくりと針のように刺した。写真の下の献辞の文字もよく似ているが、どことなく丸味があって、たしかに別な人の筆蹟だった。写真を横にして、薄光にてらしてみると、そのインクは、いま書いたばかりのように生々しかった。
そればかりではない。写真を目に近づけた途端、何ともいえぬふくよかな匂いが、竜太郎の嗅覚にまつわりついた。
あの匂いだ!
あの少女が、身にしめていた、高貴な、そのくせ絡みつくようなところのある、言い表わしようもない、ほのぼのとした、あの香水の匂いだった。
竜太郎は、卒然たる感情に襲われて思わず眼を閉じた。
さまざまなことを、何もかにも、いっぺんに了解した。王女は、やはり、あの夜の少女だった。
(あの古びた写真のかわりに、新しい写真を、わざわざヤロスラフ少年に持たして寄越したのだ)
たとえようのない愉悦の感情が、あたたかく心をひたし始めた。じぶんが願っていたのは、こういう、ちょっとした厚意……それだけでよかったのだ。これで、もう、思い残すことはなかった。明るい太陽の光が、心の隅々まで射しかけ、歌いだしたいような快活な気持になった。
そして、これを、自分にくれたわけは?……竜太郎には、その意味がはっきりとわかっていた。
(それで、いいのだ)
竜太郎が、たずねた。
「……つまり、これを持って、あきらめて帰ってくれとおっしゃるんだね」
ヤロスラフは、答えなかった。眼に見えぬほど、その頬が、紅潮した。
竜太郎はつづけた。
「よくわかりました。僕は今晩マナイールを発ちます。……王女の御厚意は終生忘れませんと言っていたと、お伝えしてください。御幸福を祈っていますと……」
ヤロスラフ少年が、いった。
「お送りします。自動車が、もう、参っております」
竜太郎は、頭をさげた。
十三
嶢※[#「山+角」、145−下−8]たる岩山に沿った泥濘の道を、自動車は、どこまでも走って行く。夜は暗く、深かった。宵のうちに、ちらと月影がさしたが、間もなく、また暗澹たる黒雲におおわれてしまった。ただ見る赭土の丘と、岩とわずかばかりの泥楊だけの、荒涼たる風景だった。風が吹いているとみえ、楊がゆるやかに体をゆすっていた。
どこへ連れてゆかれるのか、竜太郎は、まるっきり知らなかった。停車場へ行くのかと思っていると、そこを右に折れて、人家のまばらな郊外の方へ出て行く。これで、もう、一時間も、走りつづけているのだった。
岩山の裾を廻ると、はてしもない黒い原野が、眼の前に展けてきた。
とつぜん、自動車が停った。
肩幅の広い、武骨なようすをした運転手が、自動車の扉を開けると、竜太郎の旅行鞄を車からひき出し、それを、泥濘の上へおいた。
「|ここで、お降り願います《プリーズ ダウン・ヒア》」
竜太郎は、呆気にとられて、その顔を眺めていた。
運転手は、もう一度繰り返した。
「ここでお降り願います」
その声の調子のなかに、抵抗しがたい、強圧するような調子があった。竜太郎は、車から降りた。
竜太郎を車から降ろすと、自動車は、赤い尾灯《テール・ランプ》を光らせながら、いま来た方へ走り去ってしまった。
竜太郎は、鞄の上に腰をかけて、改めてこの荒漠たる風景を眺めわたした。月もなく星もなく、ただ一面に黒々とした、空寂な世界だった。こんな暗い荒野に、ひとり、ぽつんと投げ出されては、どうしよう術もなかった。この道は、たぶん国境のほうへ通じてるとすれば、いずれ、自動車ぐらいは通るだろう。そのうちに夜も明けるだろうし……。
竜太郎は、ここで、腰を据える気になって、ゆっくりと、煙草をくゆらしはじめた。
遠くのほうから、早駆する馬の蹄の音と、轢轆とした轍の音が聞えてきた。何か殺気をおびた、襲いかかって来るような気勢があった。
竜太郎の脳裏を、チラと、切迫した感情が掠めた。
(ひょっとすると、おれを、ここで、殺るつもりなのかも知れないぞ!)
その理由を考える間もなく手は反射的に、ズボンのポケットへゆき、拳銃をとり出して、安全器をはずしていた。
馬車が近づいて来た。竜太郎から、一間ほど隔ったところで停った。竜太郎は、思わず、身をひいた。
馬車の中で、何か、短かい、甲高い声で、切れぎれに叫んでいる。竜太郎は、じぶんの耳を疑った。
「……あなた、……あなた。……竜太郎さん、……竜太郎さん」
跳ね上げた、大きな黒マントの下から、白い細い手が二本、抱き寄せようとでもするように、竜太郎の方に、突き出されている。
「……竜太郎さん、……竜太郎さん。早く、早く。……どうぞ、この馬車へ! 追手が来ますから……」
声の主は、エレアーナ王女だった。白い美しい面輪の中に、不安と恐怖の色をうかべながら、息も絶えだえに叫んでいる。
「早くして、ちょうだい。どうぞ、早く」
竜太郎は、ひと跳びに馬車の方へ跳んで行って、その中へ転げ込んだ。
「エレアーナ!」
「あなた……あなた。……死ぬまでかわらないと誓ったでしょう。どうぞ、わたしといっしょに、死んで、ちょうだい」
返事の代りに、竜太郎は王女の身体を、精いっぱい抱き締めた。力のあらん限り。
馬車は、国境に向って、走り出した。馬を御しているのは、敏感そうな顔をした、あの、ヤロスラフ少年だった。
「墓地展望亭」の窓が暮れかけて、二人の顔が、薄闇のなかに、ぼんやりと白く浮いていた。窓から射し込む桃色の余映が、王女の頬の上にたゆたって、ちょうど、そこに、薔薇の花でも咲き出したように見えるのだった。
志村氏が、つづけた。
「……二人は、もちろん、助かろうとは思っていなかった。追手がかかるくらいだから国境の哨所《ポスト》には、もう電話がいってることでしょうし、行けば、捕まるにきまってるでしょう。……捕まるとどうなるんです。私が撃ち殺されるのは言うまでもないが、エレアーナは連れ戻されて七十になる大公と結婚させられるか、さもなければ、死ぬまで修道院にでも押しこめられて、死んだような一生を送らなければならない。……唖者の真似までして、大公との結婚を避けていたことがわかったら、とても、無事には済みませんよ、これぁ。……それで、エレアーナが言うんです」
そう言いかけて、愛しくてたまらないというようなふうに、思いの深い眼差で王女の顔を眺めて、
「それで、あの時、あなた、なんと言ったんだっけね」
王女は、この世のものとは思われないような、たおやかな微笑を浮べて、
「撃ち殺されるまでも、国境を突破しましょうって……」
そして、あどけなく首をかしげて、考えるようなふうをしながら、
「ええ、そうでしたわ」と、優しく、つけ加えた。
ほんとうに、不思議な境遇《シチュアション》を経た二人だといわなければなるまい。私としても、これほどの波瀾にあやなされた人達に廻り会うこともあるまいと思うと、なかなか別れがたない思いがする。
二人の話によると、エレアーナ王女は、大叔母のマラコウィッチ大公妃のとりなしで、巴里の市外にある、サント・ドミニック修道院に入って、そこで死んだ形式になり、一平民として、仏蘭西に帰化して、志村氏と結婚したのだそうだった。
毎月の八日に、じぶんの墓に花を置きに来るのは、つまり、激しい日の追憶を新たにして、現在の幸福に、いっそう深く酔おうとするためなのである。
底本:「久生十蘭全集 6[#「6」はローマ数字、1−13−26]」三一書房
1970(昭和45)年4月30日第1版第1刷発行
1974(昭和49)年6月30日第1版第2刷発行
初出:「モダン日本」
1939(昭和14)年7月〜8月
※底本の二重山括弧は、ルビ記号と重複するため、学術記号の「≪」(非常に小さい、2−67)と「≫」(非常に大きい、2−68)に代えて入力しました。
入力:tatsuki
校正:伊藤時也
2009年10月21日作成
青空文庫作成ファイル:
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