も感じなかったような、たとえようもない誇らしさと、矜持と、優越を感じながら、竜太郎が、こたえた。
「私は日本人です!」
老人は、口の中で、ほう、というような短い驚嘆の叫びを上げてから、
「その、日本人のあなたが、どうして、こんなところへ……」
竜太郎は、エレアーナ姫と偶然に南仏の海岸で知り合いになったことを話し、たいへん思い出の深いお交際だったので、戴冠式の晴れの行列を見物しようとしてやって来たこと。今日、河沿いの街で、王女が灰色の外套を着た男たちに引き立てられてゆくところを見て、われを忘れて、その男たちを打倒したまでのことを語った。
ふと、眼を上げて見ると、いつの間にか、じぶんの周囲に人垣ができていた。杞憂と不安と混ぜ合せたような幾つかの眼が、瞬きもせずに竜太郎を見おろしていた。やがて、そこここに口早やな囁きが起った。いまの竜太郎の話を相手に通訳してやっているのだった。圧しつけたような呻き声や嗟歎の声が、波のようにその人垣を揺り動かした。
穹窿の柱のあたりで、啜り泣くような祈祷の声が起った。
「|神よ願わくば王女を助け給え《ヰタ・レジナ・ヂイ・アメント》」
五人ばかりの人が跪いて祈っていた。
ほかの人たちが次ぎつぎにそのほうへ歩いて行って、祈りの度に加わった。そして、その後で、深い静寂が来た。虚無のように深い沈黙だった。
老人は、額に手をあてて黙然と俯向いていたが、ややしばらくののち、静かに顔をあげた。
「われわれは、失敗しました。主要な原因は、われわれが信念を欠いていたという一言につきると思う。われわれの同志のなかに、一種の自己満足からくる、眼に見えぬ微妙な対立があった。最もいけないのはわれわれ自身、それに気がついて居なかったということです。われわれ、つまり、王党派《ロワイヤリスト》は、いつの間にか、個人主義に染色され、ついで、意志細胞内に分裂が起り、役にも立たぬ反省となまぬるい人道主義のなかで足ぶみをしているうちに、とうとう、時機を失してしまったのです」といって、ちょっと言葉を切り、
「この国は一四一二年以来、五世紀にわたってスタンコウィッチ家が統治していますが、この家にはいつも男児がないので女帝が登位して、しかるべき家系から女婿を迎えることになっています。ところで、一九一七年の十七日に、アン女王殿下が落馬の負傷で薨去されましたが、当時エレアーナ王女殿下はわずか、五歳でしかあられなかったので、やむなく、父系のステファン家から、ウラジミール・ポポノフを迎えて、ステファン五世といたしました。……昨年の末、ステファン五世は、過度の飲酒からくる心臓弁膜症で、病床につかれるようになり、追々、険悪な状態に向いました」
十一
老人は、眼に見えぬほど頬を紅潮させて、
「今年の一月末、とつぜん、王党派の陸軍大臣イゴール・アウレスキーが枢密顧問官に推薦され、大臣には、陸軍次官のイッシャ・ポチョムキンが転補されることになりました。……これらの者は長い間、ステファン家と王党派の緩衝をつとめ、どちらの側からも比較的好意を持たれていた男なのですが、就任早々、定時の春季機動演習を一カ月繰り上げて二月二十日に行うむねを発表して、近衛師団の大部分をポラーニヤの北部に移動させてしまいました。われわれは早くも此のからくりを看破して了った。……つまり、王党派から軍隊を引き放して孤立させ、機動演習が終了して軍隊が帰還する日、この首府において、突如、武力政略《クーデタ》を行うという肚なのだと洞察しました。政略の動機は、スタンコウィッチ家のエレアーナ王女を廃して、ステファン五世の王甥、イヴァン・チェルトクーツキイを登位させるためです」
心の中の痛恨をおし鎮めようとでもするかのように、やや長い間瞑目したのち、突然、若々しい、熱情的な口調になって、
「そこで、われわれは、機先を制した。……ステファン五世の不例を口実にして、機動演習の延期を命令し同時に軍司令部と参謀本部の方略的乖離を計画して、これに成功しました。敵側にとってこれは、非常な打撃だったのです。……われわれは、第一撃に成功した。しかし、当然あるべき第二撃を行わなかった。紛擾をある程度でとどめて置きたい、微温的な感情が、それを躊躇させたのです。われわれが二度目の攻撃的攻撃に移ろうかどうかと気迷いしているうちに、敵は新たな“|切り返し《リポスト》”の手を考え出した。ステファン五世急逝の報知でエレアーナ王女殿下がマナイールに到着された日、一士官を使嗾して王女の自動車に発砲させました。不幸なことには、それが、参謀本部に隷属するいわゆる、われわれの一味だった。……ポチョムキンはそれを口実にして、臨終の際に作成された勅令をふりかざし、軍令部が独裁権《イニシアチヴ》をとって、即時に戒厳令を実施してしまいました」
そう言って、おだやかな諦観の微笑を浮べながら、
「そして、これが、われわれの、哀れな姿です」
と呟いた。
竜太郎は、一語もさし挾まずに聞いていた。バルカンの国民的性格のなかに、どんな小さな事柄でも、陰謀と闘争のかたちで表現せずにいられない運命的なものがあることを、つくづくと感ぜずにはいられなかった。老人の、寛容な態度や率直な熱情にかかわらず、気質的な弱さには同情する気持になれなかった。
竜太郎が、たずねた。
「それで、エレアーナ王女殿下は?」
竜太郎には、もうその返事が、わかっていた。心の中には、もう、一種、自若としたものが出来ていた。
老人は、やるせないまでに衰えた声で、ひくくこたえた。
「おいたわしいことです」
長い沈黙が[#「沈黙が」は底本では「沈駄が」]、つづいた。
薄光りのする夜の海を眺めながら、ただひとり、わびしげに、涙で頬をぬらしていた少女の俤が竜太郎の心のうえにほのぼのと浮びあがってきた。
エレアーナ王女はあの時すでに、今日のこの悲劇的結末をはっきりと知っていたにちがいない。その遣る瀬ない涙の意味を、竜太郎は察しることが出来なかった。
今迄飽き飽きするほど見馴れた、女性の生理的な感傷だと、頭からきめてかかって、ふりかえって見ようとはしなかった。
(せめて、優しい言葉でもかけることか、まるで、平手打ちでも喰わせるような真似をした)
どんなに悔んでも悔み足りないような気持だった。思いがけない偶然で、今日、河沿いの街で、あの夜の純情と誠実に、いささかながら酬いることが出来たことがせめてもの心やりだった。老人が、急に、口を切った。
「とつぜんですが、私を紹介させていただきます」
苦味のある微笑を唇のはしに浮べながら、
「じつは、かくいう私が前の陸軍大臣イゴール・アウレスキーなのです」
竜太郎は、うすうす察していた。仰向けに寝たまま、慇懃に目礼をかえした。
「私は、志村竜太郎。……仏国文学士」
「短い御交際でした」
アウレスキーが、右手を差し出した。竜太郎は、しっかりと、それを握った。
「ほんとに、短い御交際でした」
長い廊下の端のほうに、ぼんやりとした払暁の乳白色が流れこんできた。どこか遠いところで、急調子に小太鼓《タンブール》[#ルビの「タンブール」は底本では「タンブーレ」]を打つ音がしていた。
廊下の反対の側から、大勢の重々しい跫音が歩調をとりながら近づいてきた。
監房の扉がひき開けられ、二十四五の、美少年とでもいうべき、林檎のような赤い頬をした若い士官を先頭にして、一隊の兵士が入って来た。
監房の中の二十人は、二列縦隊に並ばされ、八人の兵士がその両側に附き添った。
この陰気な行列は、ところどころに水溜りのある暗道《ポテルン》を粛々と歩いて行った。先頭の美少年の士官の歩調だけが、ひどく快活で、何かしら、それが、滑稽に見えるのだった。
一同が引き出されたところは、広々とした砲台の営庭だった。正面に角面堡《ルタン》の高い壁がつづき、遠いその端に、糸杉の黒い列があった。
夜はまだすっかり明け切らず、薄い朝霧が、煙のように営庭の中に流れていた。灰白色と黒だけの風景。独逸表現派の陰気な画材に似ていた。
二十人は、角面堡の混凝土《コンクリート》の長い壁にそって、二間おきぐらいに立たされた。竜太郎は五番目だった。その右隣りにアウレスキーがいた。
宣告文はわずかに二行ぐらいですんだ。竜太郎も、他の十九人のリストリア人と同じように、反逆罪人のなかに加えられた。異存はなかった。
小太鼓《タンブール》が急《せ》き込むような調子で、打ち鳴らされた。
若い士官が、爽やかな声で叫んだ。
「狙《ね》ッ」
兵士が一斉に銃を取りあげる。レヴュウの練習のようにキチンと揃っていた。
「撃《て》ッ」
ズズン、と、下腹に響くような鋭い銃声が起り、暫くしてから、ゆっくりと銃口から白い煙が湧きだした。
最初の青年は、瞬間、背伸びするような恰好をし、それから、身体を斜にして、右の肩からのろのろと前に倒れた。
竜太郎は、その方へ顔を向けて、仔細に眺めていた。……ちょうど、ゴヤの『銃殺』の絵とそっくりだった。ただ、鳥毛のついた軍帽と赤縞のズボンのかわりに、ここでは、鉄兜と灰色の外套であるだけのちがいだった。
小太鼓の続け打ち。……遊挺のガチャガチャ動く音。……「狙ッ、撃ッ」……銃声。……それから、白い煙。……
これだけの簡単な操作を、単調に繰り返すだけだった。何か途方に暮れるような、あっ気なさだった。
竜太郎の左隣りの老人が、赤児の泣くような叫び声を上げながら崩れるように横倒れになった。竜太郎の耳には、はっきりと、おぎゃアと聞えた。
いよいよ、竜太郎の番になった。小太鼓が鳴り出した。竜太郎の身体のどこかがキュッと痙攣《しび》れる。しかし、恐怖の感じは、まるっきりなかった。
(王女万歳! と叫んでやろう。ひとつ、日本語でやるかな)
心の中で、こんな陽気なことを考えていた。
その瞬間、思いがけないひとつの想念が、隕石のように心のうえに落ちかかった。……じぶんの厭世的な感情も、自棄的な態度も、絶え間ない自殺への憧憬も、それらは、みな、じぶんの母国へのやるせない郷愁のせいであったということを! 母国!……この最後の時になって、はじめて、はっきりと、それを了解した。
(祖国!)
はるかな日本の山川のただずまいを、灼きつくような思いで、心のうえに、思い浮べた。ぼんやりと、眼が霞んできた……。
兵士が銃を取り上げた。
ずらりと並んだ黒い銃口の後に、鈍重な顔、無心な顔、快活な顔、生真面目な顔……。いろいろな顔が、そのくせ、何とも説明のつかぬ相似で貫かれながら、じっと、竜太郎を眺めていた。
(いよいよ、これで、最後か)と、心の中で、呟いて見た。しかし、何の感じも起きなかった。たとえようもなく、ほのぼのとした気持だった。竜太郎は、祖国とただひと夜の愛人に、心から訣別のことばを送った。(さよなら……、さよなら……)
突然、やや遠くで、轟くような大砲の音がし、それを追いかけるように、あちらこちらの寺院の鐘が、一斉に鳴りはじめ、無数の人の歓声が怒濤のように湧き起った。殷々たる砲声と、寺院の鐘と、人のどよめきが、入り乱れ、混り合い、空をどよもして響きわった。
十二
復興式《ルネッサンス》の荘重な前面《ファサート》を持った王宮の前庭には、それを、三方から囲うようにして、数万の人民が堵列していた。手に手に緑と藍と白のリストリアの小さな国旗を持ち、謁見式への自動車が通るたびに、一斉に喊声を浴びせかけた。
「万歳!」
「リストリア王国万歳!」
「エレアーナ王女万歳!」
高低さまざまに、微妙な階調をつくりながら、渾然たる歓喜の総量となって空に立ちのぼる。
竜太郎の乗った自動車は、熱狂した歓呼と歓声の間を、ゆるゆると王宮のほうへ進んで行った。
ちょうど、芝居の急転換のような、目まぐるしい一週間だった。
あの、息づまるような刹那に、竜太郎が聞いた、大砲と鐘とどよめきの声は、反乱軍の突然の背反《レヴォルト》と、スタンコウィッチとステファン両家の和議成立を
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