五年、軽佻浅膚な社交界を泳ぎまわっているうちに、いつのまにかその習俗に茶毒《とどく》され、日本から受け継いだ、男としての気概などは跡かたもなくなって、風船玉のような尻腰のない、へなちょこな魂ができあがった。いっぽう、そういう生活に対する鋭い懐疑と、絶えまない反省がある。放蕩と反省と懐疑の、役にも立たぬこの三つの相剋のなかで、竜太郎それ自身まですっかり見失ってしまった。気概どころか、意志もなければ信念もない。……人間のぬけがら。そういう、へなへなな魂が、じぶんの女を、せめて、街路樹の蔭からでもひと目見てこようなどという、しみったれたことを思いつかせるのである。
 ちょうど、天の啓示でも受けたように、薄目をあけていた昔の心が、いっぺんに覚醒する。
 竜太郎は、うめくように、呟いた。
「しみったれた真似はよせ! なによりも、じぶんらしく、日本人らしく、多少、気概のある行動をして見せろ。ひと目見たら死ぬにしても、そうでなくては、浮ばれないぞ」
 じぶんにとっては、あの少女は、ひと夜さ同じ夢をみたひとりの女にすぎない。むこうが王女なら、こちらも、日本の男いっぴき、なにもコソコソするにはあたらない。正面きって、大威張りで会いに行こうじゃないか。
(どうぞ、いつまでも、変らないで、ちょうだい)
 有頂天な囈言だなどとは思うまい。心情の美しく高い飛躍にとって、こういうケチな反省ぐらい邪魔なものはない。そのままに信じて、会いに行こう。
 気概はどうあろうと、こちらは一介の国際的ルンペン。一国の王女と結婚しようなどという無邪気なことは考えまい。もっと高く、もっと美しく、断末魔の間一髪に、この恋愛を完成させよう。
 澎湃《ほうはい》たる熱情の波にゆられながら、竜太郎は叫ぶように、いった。
「よし、戴冠式の行列を擁してやろう!」
 舗石をおれの胸の血で染めて、日本人はどんな恋愛の仕方をするものか見物させてやろう。少女の足下で胸を射貫かれて死んだら、明日死ぬと誓ったこともはたされるわけだし、虚偽だらけなじぶんの半生の最後に、ただ一度、真実の朱点を打って死にたいという望みもかなうわけである。そして、そこに高く美しい心情の完成がある。じぶんの人生に於ける最後の大祝宴。心の戴冠式だ。
「戴冠式の馬車に向って、まっ直ぐに歩いて行こう。二つの戴冠式の合歓。……習俗の弾丸がおれの胸を射貫き、おそらく、五歩とは進ませまいが、しかし、おれの精神の飛躍は阻むことは出来ない。おれの肉体はぬかるみの舗石の上へ叩きつけられても、おれの精神は、一挙に無辺際の光明世界へ飛翔する。おれは、完成されて、死ぬ」

    八

 汽車が停って、僅かばかりの人が降りて行った。
 窓をおし開けて見ると、昇降場の磨硝子の円蓋《ドーム》には水蒸気が白くたち罩め、その天井の高いところから、絶えず滴がたれ落ちていた。大気は湿って、寒かった。竜太郎は、思わず、身慄いした。
 昇降場の電灯は、なぜか、ほとんど全部消灯され、ところどころに、一つ二つ点っているのが、霧の中でぼんやりした光暈《ハロオ》をかいていた。線路も、跨橋も、指示標《シグナル》も、給水槽《タンク》も朦朧たる霧の面※[#「巾+白」、第4水準2−8−83]《ヤシマク》をつけ、一種、陰険なようすで、佇んでいた。
 跨橋の上を、鉄兜をつけた一隊の兵士が行進し、そのあとに、砲車の弾薬車がつづいた。昇降場に向いた待合室の扉は全部開けはなされ、その奥で、休止している兵士と機関銃が見えた。どっしりとした三梃のチェッコ機関銃はチカチカと鋼鉄の肌を光らせ、列車の方へ黒い銃口をむけていた。
 手提ランプをさげた、若い駅員がひとり車室に入ってきて、竜太郎に、なにか言いかける。なにを言ってるのか、一言もわからない。
 駅員は、手真似でやりだす。鞄を持って、じぶんについてこいと言ってるらしかった。
 鞄をさげて待合室の中へはいって行くと、構内食堂《ビュッフェ》の長い食卓のむこうに、灰色の外套を着た、士官らしい男が三人坐っていて、厳しい眼差しで竜太郎を迎えた。
 構内食堂の中には、ただならぬ緊迫した空気がただよっていた。奥の丸卓では、電信兵がせわしそうに電信機の鍵をうちつづけ、重い靴音を響かせながら、伝令の兵士が絶えまなく出たり入ったりしていた。廊下の壁ぎわには、鉄兜に顎緒をかけた一小隊ばかりの兵士が、横列になって並んでいた。誰か身動きするたびごとに、銃剣がドキッと光った。竜太郎は、ここで、なにが起ろうとしているのか、理解することができなかった。国境駅の検閲にしては、いささか、物々しすぎるおもむきだった。
 竜太郎は、旅行免状《パスポート》を差し出した。コレンコ風の、短い口髭を生やした、年嵩の士官は、旅行免状をチラと一瞥しただけでおし返し、近東のつよい訛のある英語で、たずねた。
「どういう、用件で?」
 竜太郎は答えなかった。今度は、仏蘭西語でたずねた。
「リストリアへ、……どういう、用向きで」
 鋭い眼が、まともに竜太郎の眼を瞶めていた。質問というより、訊問というのにちかかった。
「語学の勉強に」
 この返答は、たしかに士官の度胆を抜いたらしかった。が、依然として辛辣な表情をかえずに、
「語学の勉強? |確実に《エギザクトリィ》?」
「|確実に《アブソリューマン》」
「語学の勉強には、少々、不適当な時期ですな」
 士官の表情に、露骨に、不審をあらわしていた。
「マナイールまでおいでですか」
 竜太郎の背筋を、小さな戦慄が走った。
 この国境の近くで、何か重大なことが起りかけている。じぶんの返答ひとつで、予測し難い危険が身に迫るらしかった。咄嗟に、どう答えていいのか、判断がつかなかった。
 ふと思いついて、ダンピエール先生からもらった紹介状をとり出して、食卓の上へおいた。「今度の主要な用件は、リストリアの文部次官に会うことなのですが……」
 士官は、紹介状を手にとって、仔細に眺めはじめた。紹介状には、学士院会員ギュスタフ・ダンピエールと文部参事官ポール・ジャルウの二人の名前になっていた。
 士官の表情のなかから、ふと、辛辣な色が消えた。
「よろしい。滞在日数は?」
「いまのところ、まだ未定です」
「毎朝陸軍司令部へ出頭して査証《ヴィザ》を受けて下さい」
 竜太郎は、車室へかえった。汽車はゆるゆると動き出した。
 陸軍司令部……。ただならぬ感情が、じかに、胸にせまった。
(いったい何が起ったんだろう? )
 ※[#「藹」の「言」に代えて「月」、第3水準1−91−26]たけたエレアーナ王女が、チラと瞼の裏をよぎった。
 列車は、短い隧道をいくつもくぐりぬけ、大きな停車場に走り込んだ。
 マナイール!
 立ち上りかけて、竜太郎は、よろめいた。気の遠くなるような一瞬だった。
 停車場の前の広場は、雨気をおびた雲の下で、黒々としずまりかえっていた。一人の人影もなかった。
 ぼんやりとした遠近図《ペリスペクチフ》をかく家並の線。どの窓も、みな閉され、ちらとも灯火が洩れなかった。この首府は、喪に服しているような、深い沈黙のなかに沈み込んでいた。
 運河をへだてた、やや近い森のうしろから、サーチライトの蒼白い光芒が、三条ばかり横ざまに走り出し、雨雲の腹を撫でながら、中空で交叉したり、離れたりしている。
 フォードの古いタキシーが横づけになった。荷担夫《ポルトゥール》は、鞄をタキシーの中へ投げ入れて、手荒に扉をしめると、
「ホテル・ガリッツィヤ」
 と、叫んだ。運転手の隣りに鉄兜をかぶった兵士が一人、銃剣のついた銃を股の間にはさんで、石像のように坐っていた。自動車は、停車場の前のひろい通りをのろのろと走り出した。道路の向うから、遠雷の轟くような音が近づいてくる。自動車は急停車すると、あわてふためいたように前灯《ファール》を消した。
 竜太郎の自動車のそばを、小山のようなタンクが、耳も痴いるような地響きをたてながら、まるで、天からでも繰り出してくるように、いくつも、いくつも、通りすぎて行った。――タンクと装甲自動車の長い列。それを、騎兵の一隊が追い抜いて行った。ホテル・ガリッツィヤは、維納《ウインナ》風の安手な金箔をいたるところにくっつけた古い建物だった。
 廿日鼠のような顔をした支配人らしいのへ、竜太郎は、低い声で、たずねた。
「この国で、いったい、何が始まってるんです」
 廿日鼠は、すばやい眼差しで、ぐるりとロビイの中を見廻してから、ルーマニヤ語で、囁くように答えた。
「政変《ポリーチカ》!」
 竜太郎の血管の中で、熱い血が、動悸をうつ。騒擾か革命か? 現実に竜太郎が目賭した範囲だけでも、それは容易ならぬ風貌を示していた。先王ステファン五世の薨去の間もなく起こりうる政変といえば、いうまでもなくエレアーナ王女の登位を主題《テーマ》にしたものに相違ない。
 竜太郎は、たずねた。
「……それで、……エレアーナ王女殿下は?」どうしても、ひと息では言えなかった。声が慄えていることが、じぶんでも、わかった。廿日鼠は、たまげたような眼付で、瞬間、竜太郎の顔をながめたのち、あわてて書記台の上に顔をふせると、呻くような声で、いった。
「存じませんですよ。……どうして、手前などが、そんなことを」
 竜太郎の部屋は、運河に臨んだ二階の端にあった。天井の壁に、漆喰細工のキューピッドがついていて、愚鈍な顔をして下を見おろしていた。翼の金箔が剥げ、その上に点々と蠅の糞がついていた。
 竜太郎は、ネクタイも解かずに、長い間、じっと寝台に腰をおろしていた。それから、上衣の内懐からそろそろと一葉の写真を取り出して、つくづく眺め入る。
 エレアーナ王女は、白い夏の装いで、大理石の広い階段の第一階に、寛濶な面もちで立っている。
 竜太郎は、指の先で、転くそこここと写真にさわりながら、こんなふうに、呟く。
「君は、王女などでなければよかったんだ。……あの夜、ホテルの土壇で、海に向って泣いていたわけが、今こそ、うすうすわかるような気がする。……何か、さまざまと苦しいことがあるのにちがいない。……僕はこうして、君の写真を眺めてためいきをついているだけで、どうしてあげることも出来ないが、どうか、あまり不幸にならないように、どんなに不幸になっても、せめて、生きてだけはいてくれたまえ」
 どんなふうに祈るのか、その術を知らないのが情けなかった。そのくせ、いつの間にか、絨氈の上に膝をついて、
「南無観世音、南無観世音……」
 と、ただそれだけのことを、いつまでも繰り返していた。

    九

 夜明けに近いころ、遠くで、さかんな機関銃の音がしていた。単音符を打つような、鋭い、そのくせ陰性な音を、竜太郎は、浅い夢のなかで聞いていた。
 もう、十時を過ぎていたが、窓の外は、払暁前のような曖昧なようすをしていた。運河の河岸に片寄せられた浚渫《しゅんせつ》船の赤錆びたクレーンの上に、鴎が二三羽とまっている。暗澹たる黒い空のなかでそれが、二つの白い点のように鮮かに浮び上っている。河には動きまわる一艘の船もなかった。
 澱んだような鉛色の水が、小波ひとつ立てずにのたりと流れ、サロニカ風の奇妙な破風を持った、古びた家々がしずかに影をおとしている。そのなかに、息づまる擾乱を孕んだような不気味な静寂さだった。
 竜太郎は、いま、この首府に起こりかかっている騒擾の真相を読みとろうとでもするかのように、鋭い眼差しで、この陰険な風景を眺めていた。
 どんな手段をつくしても、エレアーナ王女の消息を尋ねなければならない。その他のことは、どうでもよかった。ただ、王女の安否だけを……。
 急いで、服に着替えた。バンドを締める手に、ミリミリと力がはいった。
「廻りっくどいことはいらない。査証を受けに行ったついでに、軍司令部へじかにぶつかってみてやれ。それでいけなければ、文部次官のところで……」
 部屋を出ようとして、習慣的に、左の手が胸の衣嚢のところへいった。
(そうそう、昨夜枕もとの夜卓《ターブル・ド・ニュイ》の上へ立てかけておいたんだっけ)

前へ 次へ
全10ページ中6ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
久生 十蘭 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング