はならないのですか、ヤロスラフさん」
 ヤロスラフは、依然として曖昧な微笑を浮べたまま、
「お気にさわったら、ごめんなさい。……どうしてもというわけではありません。おっしゃりたくなかったらおっしゃって下さらなくとも結構ですよ。べつに、大したことではないのですから……」
 竜太郎は、返事をしなかった。
 どうしたというのか、ヤロスラフは急に眼覚ましいほど快活な口調になって、
「リストリア語とルウマニア語の比較《コンパレ》をなさるんでしたら、マナイールへおいでになった方が手ッ取り早いようですね。マナイールの国立図書館には、近東語の比較言語学のいい著述がたくさんありますから、巴里などでなさる半分の労力ですむわけです。夜の八時三十五分の「経伊近東特急《サンプロン・オリアン・エクスプレッス》」で巴里をお発ちになると、三日目の夕方にはマナイールに着きますから訳はありません。……それに、いまおいでになると、即位祝賀式をごらんになれるかも知れませんからね」
「即位?……どなたが、即位なさるのです」
「エレアーナ王女殿下」
 思わず乗り出して、
「この写真の、エレアーナ王女殿下が?」
 たしかに、これは愚問だった。
 ヤロスラフは、それには答えずに、
「……ステファン五世王が二月二十五日にお薨れになったので、エレアーナ王女殿下が御登位なさるのです」
(二月二十五日!)
 竜太郎が、この日を忘れるはずはない。二月二十五日というのは、土壇であの少女に逢った日のことだった。

 竜太郎は、夕暮れの窓のそばに坐って、カルヴィンの「リストリア王国史」を読んでいた。
 沈みかけようとする夕陽が団々の雨雲を紫赤色《モーブ》に染めあげていた。

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……一四一二年、スタンコイッチ一世が登位して以来、この王系は、一九一四―一八の世界大戦によって惹き起されたバルカン半島における政治的乃至領土的紛擾の際にも、王位の干犯を受けることなく、連綿、五世紀に亙ってこの国を統治している。……一八八九年、アレクサンドル・オベノイッチ五世は露国皇后の女官ナジーヤ・スコロフを妃として、二女を挙げた。一九〇九年、エレアーナ女王殿下。ナターシャ女王殿下は三年後に生誕した。その年、九月一七日、アンナ女王が狩猟中落馬をして葩去されたが、エレアーナ女王殿下がまだ幼少だったのでステファン家のウラジミール・ポポノフが登位してステファン五世となり現在に及んでいる。エレアーナ女王殿下は……
[#ここで字下げ終わり]

「エレアーナ女王殿下……」
 竜太郎は、手荒く本を閉じる。
 あの小さな娘と、いまリストリア王国の女王の位にのぼろうとしている王女《プランセス》とが同じ女性だと信じまいとする。あの夜の娘は、王女などではなくて、南仏のどこかのホテルの土壇でいつかのように海を眺めているのにちがいない。もし、そうだったら、どんなに有難いか、などとかんがえる。
 しかし、ちょっと例のないような美しさも気品も、あの寛濶さも、今にして思いかえすと、たしかに卑俗の所産ではなかった。
 竜太郎は、椅子の背に頭を凭らせて、軽く眼を閉じる。……あの夜の記憶が、忘れていたような細かいところまで、おどろくほどはっきりと心に甦ってくる。
 なんとも言えぬ厚味のある鷹揚な態度。どんな時でも悪びれないあの落着きかた。……ちょっとした眼づかいの端々にも、高貴《ノーブルテ》の血型が明らかにうかがわれた。
 と、すると、あの夜の少女は、やはり、リストリアの王女だったと思うよりほかはないのであろう。
 竜太郎は、悒然とした顔つきで椅子から立ち上ると、部屋の端のほうまで歩いて行き、壁に貼りつけられた地図をしみじみと眺める。
 リストリア王国は、ルウマニヤとチェッコ・スロヴァキヤに挾まれた群小国の間にぽっちりと介在している。
 不等辺三角形をしたその国の央《なか》ほどのところを、青ペンキ色に塗られたダニューブの河が流れている。
 青いダニューブの河! その岸に、マナイールが、首府の標の二重丸をつけてたたずんでいる。
 マナイール!
 竜太郎は、その上へ、そっと人差指を置きながら、こんなふうに弦く。
「ここに、おれの薄情な恋人が住んでいる。……あの悲し気な眼つきで、ダニューブの水でも眺めているのだろうか」
 地図の上を強く磨すると、指先にダニューブの青い色がついて来た。
 眼に指先を近づけて、それをじっと眺めているうちに、むしょうに、あの少女に逢いたくなって来た。なんでもいい、たった、ひと眼でいい、一旦、そう思い出したら、もう方図がなかった。
 がむしゃらな、一途の激情が滾《たぎ》り立って来て、抑えようがない。息切れがして、すぐ傍の椅子の中へ落ち込んでしまった。
 竜太郎は、両手で顔を蔽って、長い間激情と戦っていたが、そのうちにどうにも耐えられなくなって、錯乱したように叫び出した。
「……行こう。……あの薄情な恋人の戴冠式の行列を見に、マナイールへ行こう!……街路樹の蔭からでも、よそながら、ひと眼見てこよう。たぶん、それで思いが晴れるだろうからな」
 竜太郎は書机のところへ駈けて行って汽車の時間表を探し出し、あわただしく頁をひるがえして「経伊特急《サンプロン・オリアン・エクスプレス》」のところをひろげると、
「……ヴァルローブ……ロオザンヌ……ドモドツノラ……ミラノ……トリエスト……ソフィア……マナイール……」と、指で辿りはじめた。
 そして、窓のほうへ立って行って、夕暮の巴里の屋根屋根を眺めていた。何も見ているわけではなかった。竜太郎は泣いていた。

 20, 35――Simpron−Orien−Expresse.
 里昂停車場《ギャアル・ド・リヨン》の六番の昇降場《ケエ》には、いつになく夥だしい人波が群れていた。それも、老人や子供たちの姿は見えなくて、どれもこれも陽焼した、ひと眼で軍人だと知れるような、体格のいい青年たちばかりで、みなひどく切迫した顔つきをして、断切音の多い近東の言葉で、互いに何か叫び交わしていた。
 発車の間ぎわになって、ダンピエール先生が、リストリアの文部次官宛の紹介状を持って駆けつけて来てくれた。ひどく息を切らしながら、竜太郎の手を握ると、青年のような若々しい声で、叫んだ。
「自白したまえ、自白したまえ。君は、リストリア語でなく、あの女王の調査に行くのではないのかね。……しかし、ま、どっちだってかまわない。いずれにしろ、この紹介状はたぶん役に立つだろう」
 竜太郎は、心の深いこの老人に無言のまま頭をさげて、感謝の意を表した。
 汽車が出て行った。
 いつかのあの敏感そうな少年が昇降場の柱の蔭から、それをジッと眺めていたことを、竜太郎は知っていたろうか。

    七

 車室には、うす暗い電灯がひとつだけ点り、ムッとするように粗悪な煙草が濠々とたちこめていた。
 床の上には腸詰の皮や、果物の芯や、唾や、煙草の吸殻などが、いたるところに飛び散ってい、汽車が揺れるたびに、そこからひどい匂いがきた。
 入口に近い座席で、剽悍な顔つきをした三人の青年がブダ語らしい言葉で激論を闘わしている。いずれも血相を変え、今にも射ち合いにでもなりそうなけしきだった。荒々しいバルカンの気質の中へはるばるとやってきたことをつくづくと感じた。
 空は低く、重苦しく、物悲し気だった。
 乳白色の濃い霧の間から、冷涼たるコンスタンツァの原野の景色が、時々、ぼんやりとよろめき出してはまた、漠々とその中へ沈んでゆく。――うち挫がれたような泥楊の低い列。霧に濡れながら身を寄せ合っているわずかばかりの羊の群。赤土の裸の丘と、嶢※[#「山+角」、123−下−5]《ぎょうかく》たる岩地。
 陽が暮れかけてきて、天地の間の沈鬱なようすは一層ひどくなった。うち沈み、歎き、悼み、一瞥にさえ心の傷む風景だった。
 竜太郎は、車窓の窓掛をひき、固い隔壁に凭れて眼をとじる。
 バルカンの沈鬱な風景も、荒々しい気質も、猥雑な乗客の群も、竜太郎になんの感じもひき起こし得なかった。巴里の里昂停車場を発ってから、この三日の長い旅の間、竜太郎の思いは、たったひとつのことに凝集されていた。それは、(戴冠式の馬車に向って、真直ぐに歩いて行こう)ということである。
 ……白い鳥毛の扁帽を冠った前駆の侍僮が、銀の長喇叭《トロンペット》を吹いて通りすぎる。……ピカピカ光る胸甲をつけた竜騎兵の一隊。……十二人の楯持《エキュイエール》が二列になって徒歩でつづく。王室の紋章を金糸で刺繍した美々しい陣羽織《レ・タバール》組。……槍の穂先をきらめかす儀仗の小隊。それから、いよいよ戴冠式のお馬車がやってくる。六頭の白馬に輓かせた金の馬車の中に、あの夜の少女がもの佗びた面もちで乗っている。
 ……一人の若い東洋人が、群集と警衛の憲兵の人垣の間から飛び出し、ゆっくりと馬車に向って歩いてゆく。……たぶん、五六歩。おそらく、それより多くはあるまい。……一発の銃声がひびきわたり、儀仗兵の拳銃の弾丸が、その胸の真ん中を射ぬく。……若い東洋人は、なんともつかぬ微笑をうかべながら、一瞬馬車の中の王女の顔を見つめ、ゆるゆると舗石の上に崩れ落ちると、それっきり動かなくなってしまう……五色の切紙が背の上におびただしく降り積み、テープの切れっぱしが、ヒラヒラといくつも首のあたりにまつわりつく。ちょうど祝宴の席で酔いつぶれてしまった、幸福な花婿のようにも見えるのである。……
 巴里を発つ時は、街路樹の蔭からなりと、ひと眼見てこようと思っていた。ところで、汽車が動き出すと、とつぜん、思いがけない心の作用が、その決心を変えてしまった。
(あの少女は、おれのものだ。……たとえ王女であろうと、なんであろうと……)
 あの夜、竜太郎の胸の中で、少女が、叫んだ。
「あたしは、もう、あなたのものよ。……あなただけのもの。……どうぞ、いつまでもかわらないと、誓って、ちょうだい」
 絶え入るように、いくども、いくども、くりかえす。
 しかし、明日になれば、地中海の碧い水のうえに、脳漿を撒きちらして自殺するじぶんなのだから、どのような誓いも無益である。黙らせるために、自分の唇で少女の口をふさいでしまった。やはり、どこか、心がしらじらとしていて、調子を合せるほど無邪気にはなれなかった。そんなことは、どうでもよかった。
 自殺するはずの、じぶんが、それを実行し得なかったのは、思いがけない急転換《クウ・ド・チアトル》のせいである。もう会えないかもしれないという、その思いが恋情を駆りたてた。……しかし、じぶんが身も※[#「宀/婁」、124−下−6]《やつ》れるまで、あの少女を恋いわたるようになったのは、ただそれだけのためであろうか。じぶんの心は、はっきりと(いな!)とこたえる。少女の誠実と無垢な愛が、じぶんの心情を刺し貫いたためである。へなちょこなじぶんの根性は、純真な愛の平手で横ッ面をぴしゃりとやられ、深いところで昏睡していた本心が、びっくりして眼をさまして、おやッ、と思った。こんな無垢な愛情には終生、二度とめぐりあうことはないぞ。いつのまにかこちらも、命をかける気になっていた。
 ところが、ソルボンヌ大学の教授室で、あの夜の少女がリストリアの王女だとわかると、持ちまえのへなへな[#「へなへな」に傍点]心は、一夜の気まぐれに弄ばれたのだと頭からきめ込んでしまった。それならそれで諦めでもすることか、不甲斐ない恋情で身をやつらせ、未練がましく悶えたり恨んだりしていた。
(あたしは、あなただけのものよ)
 たとえ、それが恍惚のときの狂熱の叫びであろうと有頂天の間の囈言《うわごと》であろうと、かりにも、じぶんの耳が聞いたその言葉を、なぜ、そのままに信じられないのか。そればかりか、相手が王女だと聞くと、これはいけないと、尻込みしてしまった不甲斐なさはなんという確信のなさ。なんという熱情の乏しさ。
 日本にいた頃の竜太郎は、蕩児は蕩児なりに、多少ずばぬけたところを持っていた。気概も気魄もある男だった。
 欧羅巴を放浪し始めてから十
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