あてはずれなら、全世界に散らばっているあとの十五人を探すために、長い旅に出かけなくてはならない。――ロンドン、ベルリン、リスボン、マドリッド、ブリュッセル、ニュウヨルク……etc.
 それは、ほとんど不可能に近いことだ。もう、このくらいで、捜すことはあきらめなくてはならないのではないか。
 竜太郎の心の上に、あの少女の俤が、影と光を伴って、また生々と甦ってくる。
 あんなにも美しく、あんなにも優しく、あんなにも心の深かったあの娘。……はじめて女の叫び声をあげたあの唇。ひとの心を吸いとるようなあのふしぎな黒い眼。楊《やなぎ》の枝のようなよく撓《しな》うあの小さな手。……あの娘にもう逢うことが出来ないのかと考えると、そう思っただけでも、頭の中のどこかが狂い出しそうな気がする。
 竜太郎は、両手で顔を蔽うと、喰いしばった歯の間で呻く。
(あきらめない! どんなことがあっても、かならず探し出して見せる。たとえ、世界の涯まで行ってでも……せめて、もう一度だけ! たった、一度だけでいいから!)
 心が激してきて、われともなく立ち上って、巴里の上に両腕を差しのばしながら、叫んだ。
「どこにいるんだ? 君は、いったい、どこにいる?……言ってくれ、よゥ、言ってくれ」
 切ない哀痛の涙が、泉のように眼からあふれ出す。もう、なりもふりもかまっていられなくなって、人通りのはげしい、そこの石段の上にしゃがみ込むと、腕で顔を隠して、大声で泣いた。
 マラコウイッチ伯爵夫人の邸は、ペール・ラシェーズの墓地の裏側にあった。
 大きな鉄門のついた宏壮な邸宅で、城壁のような高い塀が、その周りを取り巻いていた。
 門を入ると、そこは広々とした前庭になっていて、小径のところどころに、ベニス風の小さな泉水盤《フォンテーヌ》が置かれてあった。
 竜太郎は玄関の大扉のそばに垂れ下っている呼鈴の綱を[#「綱を」は底本では「綱をを」]引いて案内を乞うたが、いつまでたっても誰れもやって来ない。邸の内部には人の気配もなく森閑としずまりかえっている。
 本邸の右手の方を見ると、玄関番の小舎が見えるのでその方へ歩いて行って扉を叩くと、内部から八歳ばかりの女の児が出て来た。
「ちょっと、おたずねしたいことがあってお伺いしたのですが、どなたもいらっしゃらないの」
 子供は、すぐ、うなずいて、小舎の裏手のほうへ駆け込んで行った。
 玄関番の小舎は、内部も外部も白塗りの、異国風な建物で、床が磨き込まれて鏡のように光っていた。部屋の央ほどのところに小さな丸い卓があって、その上に、世界中のあらゆる新聞、……ベルグラードやサラエボの夕刊新聞までが帯封をしたまま、堆高く積まれてあった。
 どうしたのか、子供はなかなか帰って来ない。竜太郎は、窓のほうへ行って庭を眺めて見たが、人の影さえなかった。
 さっきの椅子に帰ろうとしながら煖炉のそばを通るとき、ふと、その上の、銀の額縁にした写真に注意をひかれた。
 近づいて、ひと眼見るなり、竜太郎は真青になってしまった。狂人のような眼つきでいつまでもその写真を眺めている。
 そのうちに、急に手を伸してそれを取りおろし、素早く裏板をあけて写真を外し、それを衣嚢に押し込むと、その代りに千|法《フラン》の紙幣を一枚そこへ挾み込んだ。
 まるで、空巣|覘《ねら》いのようにあたりをうかがいながら、ソロソロと小舎をぬけ出すと、一散に庭を駆け抜け、待たしてあったタクシイに飛び乗って、
「|学生街へ《リュウ・デ・ゼチュジアン》」
 と、命じた。
 自動車が走り出すと、竜太郎は、むしろ、恭々《うやうや》しくというほどの手つきで、先刻の写真を取り出した。
 それは、「あの夜の少女」の写真だった。
 どうして竜太郎が、それを見誤るはずがあろう!
 この、あえかにも美しい面ざし。すこし悲しげな黒い大きな眼。また、均勢のとれたすんなりとした身体つきにしてからが、まぎれもない、あの夜の娘だった。
 たとえようのない深い喜悦の情で顔を輝かせながら、竜太郎は飽かず写真を眺める。これが、現実のこととはどうも思われない。何か夢の中のあわただしい出来事に似ていた。
 竜太郎は、そのひとにいうように写真に話しかける。
「ほら、とうとうつかまえたぞ! もう、けっして離さないから。いいかい、もう決して離さない!……それにしても、この巴里で出会うなんて! ほんとうに夢のようだね」
 少女は大きな石の階段の第一階に、純白な夏服を着て立っている。その下のほうに重厚な筆蹟で献辞らしいものが二三行ばかり書きつけてあるのだが、竜太郎には一字も読むことが出来ない。どんなことが書いてあるか知りたくなった。
 ソルボンヌ大学にダンピエールという東洋語の先生がいる。その先生に読んで貰おうと思いついた。
 教授室へ入って行くと、折よくダンピエール先生がそこに居た。
 先生は写真を受け取ってその文字を眺めていたが、眼鏡を額のほうへ押しあげながら、竜太郎のほうへふりかえると、
「これは、リストリア語だね。……残念だが、ぼくには読めませんよ。……しかし、大したことはない。リストリアからヤロスラフという若い留学生が一人来ているから、それを呼んで読んで貰おう」
 間もなく扉を開いて、十九歳ばかりの痩せた、敏感そうな少年が入って来た。
 ヤロスラフは写真を受け取ってチラとその主を一瞥すると、たちまち硬直したようになって、やや長い間、眼を伏せて粛然としていたが、やがて、物静かに、口を切った。
「ここには、こんなふうに書いてあります」

[#ここから3字下げ]
神の御思召あらば、
リストリア王国を統べ給うべき
 エレアーナ王女殿下
[#ここで字下げ終わり]

 竜太郎の耳のそばで、何かがえらい音で破裂したような気がした。いま、自分の耳が聴いた言葉が、いったい、どういう意味をなすのか、咄嗟に了解することが出来なかった。
「なんです?……どうか、もう、一度」
 ヤロスラフは、敬虔なようすで眼を閉じると、祷るような口調で繰りかえした。
「神の御思召あらば、リストリア王国を統べたもうべき、エレアーナ王女殿下……」
「するとあの方が……」
 竜太郎の眼を見かえすと、ヤロスラフは一種凛然たる音調で、こたえた。
「王女殿下であられます」
 こんどは、はっきりとわかった。

    六

(あの夜の少女が王女《プランセス》)
 身体中の血が、スーッと脚のほうへ下ってゆくのがわかった。生理的な不快に似たものがムカムカ胸元に突っかけ、ひどい船酔でもしたあとのように、頭の奥のほうが、ぼんやりと霞んで来た。
(おれは、ここで卒倒するかも知れないぞ)
 机の端を両手でギュッと掴んで、いっしんに心を鎮めた。
 すこし気持が落ちつくと、最初に鋭く頭に来たのは、これアいけない、という感じだった。
(もう、二度とあの小さな手を執ることは出来ない。声をきくことも抱くことも……)
 この想いが、たったいま、自分をとりとめなくさせたのだった。
 竜太郎は、あの娘に逢ったら、いきなり胸の囲みの中へとりこみ、今迄の、うらみつらみ、うれしさも悲しさも、何もかもいっしょくたに叩きつけ、人形のような、あの脆《もろ》そうなからだを腕の中で押しつぶしてやるつもりだった。
 あの嫋やかな手を執り、あの優しい声を聴き、あの夜のようにしっかりと抱き合いながら、その耳へ、
(結婚しようね。死ぬまで、離れなくともすむように)
 と、囁やくつもりだった。
 ひと言それを言いたいばかり、この長い間、身も痩せるような奔走をつづけて来たのだったが……。しかし……
 しかし、もう、諦めなくてはならないのであろう。
※[#始め二重括弧、1−2−54]リストリア王国を統べ給うべき、エレアーナ王女殿下※[#終わり二重括弧、1−2−55]
 ところで、こちらは、放蕩と世俗の垢にまみれた、何ひとつ取り得のない一介の国際的ルンペン。愚にもつかぬ厭世家《ペシミスト》。賭博者。
 これでは、あまり種属がちがいすぎるようだ。いくらあがいたって、どうにもなるものではない。抱くどころか、傍にだってよれやしない。
 とつぜん、思いがけないある思念が電光のように心の隅を掠《かす》めた。
 竜太郎は、度を失って、もうすこしで叫び出すところだった。
 あの夜、少女がなぜ名を名乗らなかったか、あす自殺するつもりだというと、なぜ、急にあの細い指が絡みついて来たのか、迂濶にも、今になって、竜太郎は初めてその意味を了解した。
 明日はもうこの世にいない男だから、それで、ひと夜の気紛れの相手に撰んだのだった。なにしろ、死人に口はないのだから、あと腐れもなかろうし。――なんという抜目のなさ!
(なるほど、そういうわけだったのか)
 竜太郎の胸の裏側を、何か冷たいものが吹いて通る。佗びしいとも、やるせないとも言いようのない寒々とした気持だった。
 しょせん、戯れにすぎなかったのだ。あの夜の離れて行きかたが、よくそれを表明している。たとえ、わずかばかりでも真実らしい思いがあったら、けして、あんな別れかたはしまい。揺り起して、別れの言葉のひとつぐらいは言うであろう。それを、眠っているのを見すまして、逃げるように行ってしまった。
 あの愛らしい唇から、あんなにも優しく呼びかけあんなにもいくども誓った、あのかずかずの言葉は、みな、その場かぎりのざれごと[#「ざれごと」に傍点]だったのだ。
 竜太郎は、胸の中で、苦々しく、呟く。
(なにしろ、うまく遊ばれたもんだ)
 それはいいが、……それはいいが、これほどの自分のひたむきな熱情や真実が、こんな無残な方法で虐殺されたと思うと、つらかった。
 たぶん、魂が痛むというのは、こんな感じをいうのであろう。胸のどこかに孔があき、その創口から、すこしずつ血が流れ出しているような、そんな辛さだった。
 ふと、気がついて顔をあげると、ダンピエール先生が、半身をこちらへ捻じ向け、ペンを持ったままで、気遣わしそうな面持でこちらを眺めていた。ヤロスラフ少年は先生のそばで、何かせっせと紙に書きつけていた。
 竜太郎が顔をあげたのを見ると、先生は、いつものように屈托のない調子で、
「……すこし、顔色が悪い。気分でも悪いのではないかね。……それとも」
 チラと皮肉な微笑をうかべ、
「バルカン半島のような政事的擾乱《フウルウィルスマン・ポリティック》が君にも起こっているのか」
 と、いって、大声で笑い出した。
 竜太郎はハンカチで額を拭う。ひどい冷汗だった。出来るだけ快活なようすをつくりながら、
「いや、そういうわけではありません。ええと、……大急ぎで、リストリア語とルウマニア語の比較論《コンパレ》を書き上げなくてはならないことになって、……この頃、ずっと寝不足をしているものですから、それで……」
 何を言うのか、しどろもどろのていだった。
 先生は、すぐ真にうけて、
「それは、たいへんだ。何か要る本があったら遠慮なく持って行きたまえ。……もし、そういう必要があるなら、ヤロスラフ君を貸してあげてもいいよ」
 竜太郎は、あわてて手を振った。
「いいえ、それほどのことでもないのです。……すこしばかり参考書を貸していただければ……」
 そう言いながら、何気なく先生のとなりへ視線を移すと、瞬きもせずに、竜太郎を瞶めているヤロスラフの眼と出会った。なにか、劇しい敵意を含んだ眼つきだった。
 竜太郎は、自分でも何とも判らぬ不快を感じて、ジッとその眼を見返すと、ヤロスラフは、急に眼を伏せて額際まで真赤になり、「どうも失礼しました。……わたくし、日本の方にお眼にかかるのはこれが初めてなんです……」
 と、いって、近東人種特有の陰険な微笑を浮べた。どうもそのまま信用しにくいようなところがあった。
「それに、もうひとつ。……どうしてその写真があなたのお手に入ったか、さっきからそれを不審にしていたものですから……」
 来るな、と思っていたら、果してそうだった。竜太郎は顔を引き緊めて、
「これは、あるひとから托されたのですが、そのひとの名を申しあげなくて
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