た。
「たとえ、どんなことがらでも!」
「それは、なぜ?」
 文部次官は、竜太郎の耳に口をあてて、囁いた。
「女王殿下は、唖者であられるのです」

 それから、三時間ほどののち、竜太郎は、ガリッツィヤ・ホテルの長い廊下を歩いていた。黄昏の色が濃くなって、廊下の隅々が、おんどり[#「おんどり」に傍点]と闇をたたえていた。
 ソルボンヌ大学のダンペール先生のところで、写真の主がリストリア国の王女だと知ってから今日まで竜太郎の胸のうちに育まれていた夢想も、希望も憧憬も、一挙にして跡形もなく、消え失せてしまった。……竜太郎の夢は、死んだ。
 今日まで、ひとすじに憧れわたったその人は、縁もゆかりもない、まったくの別人だった!
 竜太郎は、自嘲の色をうかべながら、こんなふうに、つぶやく。
「おれは、いったい、何という、夢をみたんだ」
 片腹いたくもあり、滑稽でもあった。竜太郎は、ためいきをつく。
「また、始めからやり直さなくてはならない」
 竜太郎は、悒然とした面持でじぶんの部屋の扉の前に帰りついた。
 ふと、妙なことを発見して、厳しく、眉をひそめた。どうしたというのだろう。たしかに鍵をかけて出た
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