とつ立たなかった。どのような、感情の翳も……。
 はじめて、了解した。
(忘れたふりをしているのだ!)突っ放されてしまった。……この、感じは、すこし、つらすぎた。(やはり謁見式なんかにやってくるんじゃなかった。……はじめから、わかりきっていることを……)
 次ぎの謁見者の跫音が、すぐじぶんの後に迫って来た。もうどうすることも出来ない!
 竜太郎は、最敬礼をすると、低く頭をたれたまま後退りに三歩あるき、それから、耐えがたい憂愁を心に抱きながら、しおしおと、炎の道を戻り始めた。
 待合室《サール・ダッタント》の入口のところで、文部次官が、追い縋って来た。竜太郎の腕をとって部屋の片隅に引いて行きながら、すこし気色ばんだ、圧しつけるような声でいった。
「ムッシュ・シムラ。……三月二五日の、戴冠式の前日のレセプションのこともありますから、ご注意までに申し上げるのですが、女王殿下に言葉をお掛けするようなことは、絶対に、慎んでいただかなければ……」
 竜太郎は、遣る瀬ない憤懣の情から、思わず鋭い声で訊きかえした。
「お祝いの言葉を言上することも、慎まなければならないのですか」
 文部次官は、うなずい
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