、ぼんやりとした眼付きで、ほのぼのと竜太郎の顔を見返している。どういう感情の動きも、心理の反射も、そこには見られなかった。
(女王は、おれを、忘れている)
あのようなこまやかな「時」のあとで、その相手を見忘れるなどということがあるべきはずはない。……しかし女王の顔は、初見の人を眺める、あの冷淡な「他人の顔」だった。
(女王は、まるっきり、じぶんを知らないのだ!)
竜太郎の心は、この突然の混乱で、支離滅裂になってしまった。じぶんがいま、何を考えているのか、てんでわからなかった。
謁見室の入口で[#「入口で」は底本では「人口で」]、式部長官が、次の謁見者の名を披露している。
「ニコラス・ウォロスキー。……カルニヤ・ブレビッグ……」
もう御前を退出しなくてはならない。
しかし、どうしても、これでは、諦めかねた。竜太郎は、軽く、半歩前へ歩み出ると、女王の眼を瞶めながら、必死のいきおいで、囁いた。
「女王殿下、もう、お忘れですか? 私は、あの夜、サヴォイ・ホテルの土壇《テラス》でお目にかかった、志村竜太郎です。志村……」
女王の表情は、風のない日の沼のように静まりかえっていて、小波ひ
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