今迄飽き飽きするほど見馴れた、女性の生理的な感傷だと、頭からきめてかかって、ふりかえって見ようとはしなかった。
(せめて、優しい言葉でもかけることか、まるで、平手打ちでも喰わせるような真似をした)
 どんなに悔んでも悔み足りないような気持だった。思いがけない偶然で、今日、河沿いの街で、あの夜の純情と誠実に、いささかながら酬いることが出来たことがせめてもの心やりだった。老人が、急に、口を切った。
「とつぜんですが、私を紹介させていただきます」
 苦味のある微笑を唇のはしに浮べながら、
「じつは、かくいう私が前の陸軍大臣イゴール・アウレスキーなのです」
 竜太郎は、うすうす察していた。仰向けに寝たまま、慇懃に目礼をかえした。
「私は、志村竜太郎。……仏国文学士」
「短い御交際でした」
 アウレスキーが、右手を差し出した。竜太郎は、しっかりと、それを握った。
「ほんとに、短い御交際でした」
 長い廊下の端のほうに、ぼんやりとした払暁の乳白色が流れこんできた。どこか遠いところで、急調子に小太鼓《タンブール》[#ルビの「タンブール」は底本では「タンブーレ」]を打つ音がしていた。
 廊下の反対
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