重い靴音だけが、浮き上るように響いていた。天井が陰気な谺をかえした。
 竜太郎は、藁の上に片肘を立てようとしたが、右腕も左腕も全然用をなさなくなっているのに気がついた。両腕ばかりではない、肘を起そうとした途端に、骨を刻むような鋭い疼痛がきた。頭が割れるように痛み、咽喉はひりつくような激しい渇きをおぼえた。
 思わず、呻き声をあげた。
 六十ばかりの寛容な面持をした白髪の老人が、寄って来て、無言のまま竜太郎の枕もとに坐った。こうして、坐っていてやりさえすれば、相手を慰めることができると思っているふうだった。竜太郎には、すぐ、その心が通じた。
「どうぞ、水を」
 老人は、無言のまま首を振った。
 竜太郎は、たずねた。
「ここは、どこです」
 老人は美しい抑揚のある仏蘭西語でこたえた。
「マリッツァ砲台監獄の地下牢です」
 ぼんやりと、記憶が甦ってきた。
 じぶんのペン・ナイフが浅黒い顔をした男の頬を斜めに斬り裂き、おさえた指の股からあふれるように血が噴き出し、ゆるゆると袖口の方へ流れ込んでいたことが妙に鮮かに残っていた。ひと跳躍して、街路樹に背をもたせて喘いでいるやつへ飛びかかろうとしたと
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