、たとえば、蒸溜器の中で調合された媚薬の香とでもいったような、言いあらわしようもないふくよかな香気で、それが、水脈のようにあとをひきながら、ほのぼのと広間の出口のほうへ流れている。
竜太郎は、われともなく心をときめかして、かぐわしいその水脈に乗って、吸い寄せられるようにそのほうへ歩いて行った。
土壇《テラッス》へ出てゆくと、片かげの薄闇の中に、竜太郎の揺椅子《ロッキングチェヤ》にひとりの婦人が掛けて、しずかに海を眺めていた。黒檀《こくたん》色の海の上で、船の檣灯《しょうとう》の光が、いくつも重なり合い、ちょうど夜光虫のようにユラユラとゆれている。すこし湿った大気の中に春の息吹のような軽々とした香りが立ち迷っていて、微かな海風が起るたびに、なよなよと竜太郎のほうへ吹きつける。さきほどの微妙な香気は、この婦人からくる匂いだった。
竜太郎は長い間、竜舌蘭《アローエズ》のそばに立ちつくして、気がついてくれるのを待っていたが、いつまでたっても、その婦人は身動きもしない。なにか、深い物思いに沈み込んでいるのらしく、すぐそばに竜太郎が立っていることに、まるっきり気がつかないふうだった。
そ
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