渫《しゅんせつ》船の赤錆びたクレーンの上に、鴎が二三羽とまっている。暗澹たる黒い空のなかでそれが、二つの白い点のように鮮かに浮び上っている。河には動きまわる一艘の船もなかった。
 澱んだような鉛色の水が、小波ひとつ立てずにのたりと流れ、サロニカ風の奇妙な破風を持った、古びた家々がしずかに影をおとしている。そのなかに、息づまる擾乱を孕んだような不気味な静寂さだった。
 竜太郎は、いま、この首府に起こりかかっている騒擾の真相を読みとろうとでもするかのように、鋭い眼差しで、この陰険な風景を眺めていた。
 どんな手段をつくしても、エレアーナ王女の消息を尋ねなければならない。その他のことは、どうでもよかった。ただ、王女の安否だけを……。
 急いで、服に着替えた。バンドを締める手に、ミリミリと力がはいった。
「廻りっくどいことはいらない。査証を受けに行ったついでに、軍司令部へじかにぶつかってみてやれ。それでいけなければ、文部次官のところで……」
 部屋を出ようとして、習慣的に、左の手が胸の衣嚢のところへいった。
(そうそう、昨夜枕もとの夜卓《ターブル・ド・ニュイ》の上へ立てかけておいたんだっけ)

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