出来なかった。クンケルが、いった。
「まいりました」
竜太郎が、おそるおそる眼をひらく、卓の向う側に、どこか険のある、美しい顔だちの娘が立っていた。
竜太郎は、力の抜けたような声で、いった。
「このひとではありません」
五
竜太郎は、モンマルトルの丘の聖心院《サクレ・クウル》の庭に立って、眼の下の巴里の市街を眺め渡していた。
「巴里」は灰色の雨雲の下に甍々を並べ、はるかその涯は、薄い靄の中に溶け込んでいる。まるで背くらべをしているような屋根・屋根・屋根。ぬき出し、隠れ、押し重なり、眼の届く限りはるばるとひろがっている。
右手の地平に、水墨のようにうっすらと滲み出しているのはムウドンの丘。左手に黝く見えるのはヴァンセイヌの森であろう。
廃兵院《アンブアリード》の緑青色の円屋根の上に洩れ陽がさしかけ、エッフェル塔のてっぺんで三色旗がヒラヒラと翻っている。
竜太郎は、巴里をこんなに広く感じたことは、今迄にただの一度もなかった。この大都市には、三百万の人が住み、七十五万の所帯がある。その中から、どんな方法でたった一人の少女を探し出そうというのか。
ところで、この大都会
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