かない顔で立ち竦《すく》んでいると、
「おい、伝兵衛、ここだ、ここだ」
その声は、どうやら、はるか虚空の方から響いて来るようである。
「うへえ」
五、六歩後へ退って、小手をかざして塔の上の方を見上《みあげ》るならば、五重塔の素《す》ッ天辺《てっぺん》、緑青《ろくしょう》のふいた相輪《そうりん》の根元に、青色の角袖《かくそで》の半合羽を着た儒者の質流れのような人物が、左の腕を九|輪《りん》に絡みつけ、右手には大きな筒眼鏡を持って、閑興清遊《かんきょうせいゆう》の趣《おもむき》でのんびりとあちらこちらの景色を眺めてござる。
総髪《そうはつ》の先を切った妙な茶筅髪《ちゃせんがみ》。
でっくりと小肥りで、ひどく癖のある怒り肩の塩梅《あんばい》。見違えようたって見違えるはずはない、鍋町と背中合せ、神田|白壁町《しらかべちょう》の裏長屋に住んでいる一風変った本草《ほんぞう》、究理の大博士。当節、江戸市中でその名を知らぬものはない、鳩渓《きゅうけい》、平賀源内先生。
「医書、儒書会読講釈」の看板を掛け、この方の弟子だけでも凡《およ》そ二百人。諸家《しょけ》の出入やら究理機械の発明、薬草の採集
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