重の塔の下までやってくると、どこからともなく、
「……おい、伝兵衛、伝兵衛」
 チャリ敵の伝兵衛、大して度胸もない癖に、すぐ向《むか》ッ腹《ぱら》をたてる性質だから、たちまち河豚提灯《ふぐちょうちん》なりに面《つら》を膨《ふく》らし、
「けッ、なにが伝兵衛、伝兵衛だ。大束《おおたば》な呼び方をしやアがって。……馬鹿にするねえ」
 亭々《てい/\》たる並松《なみまつ》の梢に淡雪《あわゆき》の色。
 ぐるりと見廻したが、さっぱりと掃き清められた御山内には、人影らしいものもない。
「な、なんだい。……たしかに、伝兵衛、伝兵衛と聞えたようだったが……テヘ、空耳《そらみみ》か」
 ぶつくさ言いながら歩き出そうとすると、また、どこからともなく、
「伝兵衛、伝兵衛……」
 あわてて見廻す。やはり、誰《だれ》もいない。
 伝兵衛、タジタジとなって、
「おい、止《よ》そうよ。どうしたというんだい、こりゃア……」
 麻布の豆狸というのはあるが、御山内にももんじいが出るという話はまだ聞かない。それにしても朝の五ツ半(九時)、変化《へんげ》の狸のという時刻じゃない。
「嫌だねえ」
 ゾクッとして、まとまりのつ
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