、刀を掴み取る暇もなく素跣足《すはだし》のまま庭へ飛び下り、黒部の柴折戸《しおりど》を蹴放《けはな》すようにして隣の庭へ飛び込んで行った。
沓脱石《くつぬぎいし》から一足飛びに座敷の中へ入って見ると、眼も当てられぬ光景になっていた。
落してまだ間があるまい。眉の跡が若葉の匂うよう。薩摩上布《さつまじょうふ》に秋草の刺縫《ぬい》のある紫紺《しこん》の絽《ろ》の帯を町家《まちや》風にきちんと結んだ、二十二、三の下町の若御寮《わかごりょう》。
余り見馴れない、朱房のついた銀※[#「木+霸」、第3水準1−86−28]の匕首で左の肩胛骨《かいがらぼね》の下のあたりをの[#「の」に傍点]深く突刺されたまま、左脇を下にして鬢を畳に擦りつけ、
「あッ……、たれか、助けて、ちょうだい……たれか、はやく。……死にたくないから。……あなた、あなた……」
それでも膝を乱すまいとして両膝を縮め無心に裾をかばっている。哀れなので。
乙平は一目見て、これは、もういけないと思った。気儘から謡の先生などをして暮しているが一廉《ひとかど》の心得のある武士だから、生《なま》じい生命を庇《かば》おうと狼狽《うろた》
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