い》という謡《うたい》の先生の家で、向うにも二十坪ばかりの庭があり、向うの梅の枝が垣根を越してこちらへ張り出し、隣の渋柿がこちらの庭に落ちるといったぐあい。垣根とは名ばかりで一つ庭のようなもの。
乙平は気骨の折れる士勤《さむらいづとめ》をして肩を凝らすより、いっそ謡でも唱って気楽に、と自分から進んで浪人したくらいの芯からの江戸人。箱根を越えたことがないのが自慢なくらいなのだから、仮宅にもせよ垣根の隣へ唐人が越して来たのを気味悪がって、生来の潔癖から垣根の方へも寄らないようにしていた。
丁度六ツ半頃、庭に盥《たらい》を出させて萩《はぎ》の間《あいだ》で行水《ぎょうずい》を使っていると、とつぜん隣の家で、きゃッという魂消《たまぎ》えるような女の叫び声が聞え、続いて、
「あ痛っッ、……陳さん、あなた、何で、あたしを、こんな目に……。あれえッ、どなたか、どうぞ……」
巴《ともえ》になって争っているような激しい足音がして、
「……どなたかッ、……どなたかッ……」
と、言っているうちに、女の声は段々かすかになる。
乙平は捨てて置けなくなったので、手早く身体を拭いて帷子《かたびら》を引掛け
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