ころ先生の面《おもて》には一抹の憂色があって、トホンとした中にも何処《どこ》か屈託あり気な様子が見える。
源内先生の憂悶《ゆうもん》の種はこんなことだった。
宝暦《ほうれき》二年、二十一歳で長崎に勉強をしに行った時、長々|寄泊《きはく》して親よりましな親身な世話を受けた本籠町《もとかごまち》海産問屋、長崎屋藤十郎《ながさきやとうじゅうろう》の妹娘の鳥《とり》というのが、江戸日本橋|小網町《こあみちょう》の廻船問屋|港屋太蔵《みなとやたぞう》方へ嫁に来ていて、夫婦仲もたいへんに睦《むつ》ましかったのだが、このお盆の十五日、ひわという下女を連れて永代へ川施餓鬼《かわせがき》に行った帰途《かえりみち》、長崎で世話になった唐人《あちゃ》さんが、今、江戸へ上って来ているから、一寸、挨拶をして来ると言って、新堀町《しんぼりちょう》で女中を返し、自分ひとりで神田|和泉町《いずみちょう》の陳東海《ちんとうかい》の仮宅《かりたく》へ訪ねて行ったところ、どういういきさつがあったのか、陳に殺されてしまった。
六ツ半といっても、夏のことだからまだ明るい。
陳東海の仮宅の垣根の隣が伊草乙平《いくさおつへ
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