竹藪の向うの農家からときどき長閑《のどか》な※[#「奚+隹」、第3水準1−93−66]《にわとり》の声が聞える。
江戸を七月二十日に発ち、先年江戸へ上るとき世話になった駿河本町《するがほんまち》二丁目、旅籠屋《はたごや》菱屋与右衛門《ひしやよえもん》方へ先度《せんど》の礼かたがた三日程泊り、八月二十四日に京都へ着いて山科《やましな》の三井八郎右衛門《みついはちろうえもん》の四季庵《しきあん》でまた三日ばかり、引止められるのを振切ってこれから大阪へ下ろうという都合《つもり》。
大阪には、先年長逗留の間、先生の創見にかかわる太白砂糖《たいはくざとう》の製法を伝授して大いに徳とされ、富裕《ふゆう》・物持《ものもち》の商人に数々の昵懇がある。
先生が江戸へ発《た》とうとする時、生涯衣食のご心配はかけませんからどうぞ大阪にお止まりを、と言って皆々袖を引止めた程だったから、今度また先生が大阪へ下ったと知ったら、誰も彼もと押寄せて下にも置かぬ款待《もてなし》をするにちがいない。先生にしたってそれは嬉しくない筈はないので、本来ならばもう少し浮々《うきうき》してもよかるべきところを、見受けると
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