ら消えてしまう。この演出は成功するだろうという確信があった。

 久美子は和歌山までの切符を買って、二十一時五十分の大阪行に乗った。
 網棚へ小道具の入ったスーツ・ケースを載せると、灰銀のフラノのワンピースに緋裏のついた黒のモヘアのストールという、どこかのファッション・モデルのような恰好で車室を流して歩き、知った顔がないかと物色していたが、三つ目の車でロケハンにでも行くらしい楠田という助監督の一行を見つけた。
「楠田さん」
「おお、お久美さんじゃないか。すかっとした恰好で、どこへ行く」
「郷里へ帰るの、和歌山へ……親孝行をしに」
「なんだかわかったもんじゃないな。キョロキョロして、誰をさがしているんだ」
「誰か乗っていないかと思ってさがしていたの」
「こんなお粗末なのでよかったら、つきあっていただきましょう。掛けなさいよ」
 宇野久美子はどうなったというような騒ぎになると、この連中は、五月二十日の夜の九時五十分の大阪行の準急に久美子が乗っていたと証言してくれるだろう。これで用は足りた。
「ありがとう。ここもいっぱいね。またあとで話しにくるわ」
 さっきの座席に戻ると、話しかけられるのを防ぐために、久美子は顔にストールをかけて寝たふりをしていた。
 午前三時ごろ、浜松に停車した。久美子は網棚からスーツ・ケースをおろすと、浜松で降りる乗客にまじっていったホームへ降り、それからすぐ前の車輌に移って、つづきの二等車のトイレットに入った。
 ドレスを脱いでお着換えをする。よれよれの紺のスラックスに肱のぬけたナイロンのジャンパー、ベレエに運動靴……何年か前に友達の絵描きが置いて行った絵具箱に三脚を結びつけたのを肩にかけると、脱いだものを入れたスーツ・ケースをさげてトイレットから出た。宇野久美子が身につけていたものは、汽車の中に置いて行くつもりなので、二等車を通りぬけながら網棚のあいたところへ放りあげ、前部のつづきの車に移った。簡単な手続きだが、これで宇野久美子の中から、誰とも知れない別な人間を抽出したつもりだった。
 予定どおりに豊橋で下車すると、久美子は車掌をつかまえて、汽車の中で書いておいたメモをわたした。
「すみませんが、これをアナウンスしてください。おねがい……」
 間もなくホームの拡声器からアナウンスの声が流れだした。
「一二九号列車に乗っていられる東洋放送の宇野久美
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