子さん……東洋放送の宇野久美子さん、お連れの方はつぎの便になりましたから、待たずにその汽車で行ってください」
 風の吹きとおすホームのベンチでアナウンスの声を聞いていると、モヘアのしゃれたストールをかけた宇野久美子が実際に客車の中にいるような気がして、思わず笑ってしまった。宇野久美子という女性はたしかに豊橋まで汽車に乗っていたはずだが、それから先は行方知れずということになる。永久に大阪駅に着くことはないのだ。
 久美子が恐れていたのは、自殺する意図のあったことを嗅ぎつけられ、しつっこく捜したてられることだったが、ここまで手を打っておけば、その心配もない。郷里の母は娘が帰ってくるなどとは思ってもいないし、伊那の農家では郷里の滞在が長びいているのだと思うだろう。勘がよければ、医務の内科主任がはてなと思うのだろうが、そのときは湖底の吸込孔の中か、無縁墓地の土の下で腐っているはずだ。
 五時二十分の名古屋発東京行の列車が着くと、久美子はちがうひとのような明るい顔で窓際の座席におさまると、ポスターのうたい文句をいくども口の中で呟いた。
「夢の湖、楽しい湖へ……」
 阿鼻叫喚のすごい苦悶の中で息をひきとるのではなくて、自分がえらんだ、魅力のある方法で、ひっそりと消えて行くのだと思うと、なんともいえないほど楽しくて気持が浮き浮きしてきた。
 正午すぎに伊東に着いた。
 久美子は駅前の食堂で昼食をすませると、バスを見捨てて下田街道を湖水のあるほうへ歩きだした。
 だいたいプラン通りに運んだ。あとは生存を廃棄するという作業が残っているだけ。さしあたって急ぐことはなにもない。二里たらずの道なら、どんなにゆっくり歩いても夕方までには着く。バスの中で知った顔に出っくわす危険をおかすより、気ままにブラブラと歩いて行くほうがよかった。
 川奈へ行く分れ道の近く、急に空が曇って雨が降りだした。こんな雨は予想していなかったので、気持を乱しかけたが、濡れるなら濡れるまでのことだと、ガムシャラに雨の中を歩いていると、追いぬいて行ったプリムスが五メートルほど先で停った。
 久美子が車のそばまで行くと、格子縞のハンティングをかぶった、いかにもスポーティな初老の紳士が脇窓から声をかけた。
「どこへ行くんです」
「湖水へ」
「ひどく濡れたね。お乗んなさい。私も湖水へ行く」
「こんな雨ぐらい、なんでもないわ」

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