肌色の月
久生十蘭
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【テキスト中に現れる記号について】
《》:ルビ
(例)白膠木《ぬるで》
|:ルビの付く文字列の始まりを特定する記号
(例)原病|竈《そう》
[#]:入力者注 主に外字の説明や、傍点の位置の指定
(数字は、JIS X 0213の面区点番号、または底本のページと行数)
(例)※[#小書き片仮名ガ、295−上−5]
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運送会社の集荷係が宅扱いの最後の梱包を運びだすと、この五年の間、宇野久美子の生活の砦だった二間つづきのアパートの部屋の中が、セットの組みあがらないテレビのスタジオのような空虚なようすになった。いままで洋服箪笥のあった壁の上に、芽出しの白膠木《ぬるで》の葉繁みがレースのような繊細な影を落しているのが、なぜかひどく斬新な感じがした。
管理人の細君が挨拶にきた。
「おすみになりましたか」
「ええ、あらかた……ながながお世話になりました」
「宇野さん、和歌山なんだそうですね」
「ええ、和歌山よ」
「お郷里《くに》へお帰りになるんだって。テレビであなたの顔を見られなくなると思うと、さびしいですわ」
「こんなふうに休んでばかりいるんじゃ、ろくな仕事はできないでしょう。ほうぼうへ迷惑をかけるばかりで……二、三年、郷里でのんきにやって、また出なおしてくるわ」
「焦っちゃだめよ、ね。仲さんみたいなことになるのは不幸すぎるわ」
「あたしはだいじょうぶ」
「じゃ、お大切にね。元気で帰っていらっしゃい」
「ありがとう」
管理人の細君がひきとると、久美子はボール・ペンをだして、戦争の間、疎開していた伊那の谷の奥の農家へハガキを書いた。
伊那はいま藤のさかりでしょう。みなさま、お元気のよし、なによりです。先日、勝手なことをおねがいしましたが、さっそくご承知くださいましてお礼の申しようもございません。今日、日通から身の廻りのものを貨物便で送りました。ちょっと和歌山へ帰って、それからそちらへ伺うようになりますので、それまで雑倉の隅へでもお置きくださるようおねがいいたします。
もう仕残したことはなにもない。衣裳と小道具の入ったボストン・バッグをさげて部屋を出るだけ。ハガキをポストに投げこんで、どこかの安宿で衣裳を換えて、たぶん伊東行の湘南電車に乗る……。
宇野久美子は完全犯罪を行なおうとしている。ただし、久美子の場合、殺そうというのは
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