「なんでもないことはない。そんなことをしていると風邪をひく。遠慮しないで乗りたまえ」
 振りきってしまいたかったが、これ以上断るのはいささか不自然だ。うるさいひっかかりにならなければいいがと思いながら、おそるおそる車の中に身を入れた。
「すみません」
 久美子が運転席に腰を落ちつけると、車が走りだした。
「体力で絵を描くのだというが、なるほど、たいへんなものだね、雨の中を湖水まで歩いて行こうという元気は……あなた東京ですか」
「はあ、東京です」
 久美子はうるさくなって、素っ気ない返事をした。紳士のほうも、ものをいう興味を失ったのだとみえて、黙りこんでしまった。
 雨がやんで雲切れがし、道のむこうが明るくなったと思ったら、天城の裾野のこじんまりとした湖の風景が、だしぬけに眼の前に迫ってきた。
 周囲一里ほどの深くすんだ湖水が、道端からいきなりにはじまり、岸だというしるしに、菱や水蓮が水面も見えないほど簇生している。湖心のあたりに二ヶ所ばかり深いところがあって、そこだけが青々とした水色になっていた。
 湖のほとりで車を停めると、紳士がたずねた。
「泊るところはどこ? ついでだから送ってあげよう」
 今夜の泊りなどは考えてもいなかったが、久美子は思いつきで、出まかせをいった。
「もう、ここで結構ですわ……キャンプ村のバンガローを借りて、今夜はそこで泊ります」
「バンガローの鍵を持っている管理人は、今日は吉田へ行っているはずだ。売店なんかもやっていないだろうし、生憎《あいにく》だったね」
 久美子が弱ったような顔をしてみせると、そのひとはむやみに同情して、この辺には宿屋なんかないから、大室山の岩室ホテルへでも行くほかはなかろうと、おしえてくれた。
「ホテルになんか、とても……お金がないんです。ごらんのとおりの貧乏絵描きですから」
 紳士はなにか考えていたが、
「そんなら、私の家へ来たまえ」
 と、おしつけるようにいった。
「でも、それではあんまり……」
「なにもお世話はできないが、一晩ぐらいならお宿《やど》をしよう」
 車をすこしあとへ戻して、林の中の道を湖の岸についてまわりこんで行く。
 どれがどの技とも見わけられないほど、青葉若葉が重なった下に、眼のさめるような緑青色の岩蕗や羊歯が繁っている。灰緑から海緑《ヴェル・マレエ》までのあらゆる色階をつくした、ただ一色の世界で
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