、車もろとも緑の中へ溶けこんでしまうのではないかというような気がした。
 林の中の道を行きつくすと、また湖の岸に出た。樹牆《じゅしょう》に囲まれた広い芝生の奥、赤煉瓦の煙突のついた二階建のロッジの前で車が停った。
「この家だ。住み荒して、見るかげもない破家《あばらや》だが」
 玄関のつづきは大きな広間で、天井に栂《とが》の太い梁がむきだしになり、正面に丸石を畳んだ壁煖炉がある。広間の右端の階段から中二階の寝室にあがるようになっている。
 久美子が濡れしょぼれ、みじめな恰好で火のない煖炉のそばに立っていると、
「そうだ。そいつは脱がなくちゃいけない」
 主人は二階へ行って、ピジャマと空色の部屋着を抱いて戻ってきた。
「ともかく、これと着換えなさい。風呂場にタオルがあるから……その間に、煖炉を燃しつけておく」
 久美子は言われたように風呂場へ行き、濡れしおったものを脱いでピジャマに着換えた。部屋着を羽織って広間へ戻ると、煖炉の中で松薪がパチパチと音をたてていた。
「火の要る季節じゃないが、これはあなたへのご馳走だ」
「そんなにしていただくと、なんだか申訳なくて」
「あなたも堅っ苦しいひとだね。いちいち礼をいうことはない……まあ、その椅子に掛けなさい。名乗りをしなかったが、私は大池忠平……」
「申しおくれました。あたくし栂尾《とがお》ひろと申します」
「これも、なにかの縁でしょうな。以後、御別懇に……絵を描くひとに、こんなことをいうのは妙なもんだが、風景ってのは、油断のならないものだと思うんだが、あなたはそんなことを考えたことはないですか」
 と、思わせぶりなことをいいだした。
「ここへ来る途中で思いだしたんだが、あなたのような絵を描くひとに、いちどたずねてみたいと思っていたことがあるんだ」
「あたしなどにわかりそうもないけど」
「四、五年前、この湖へ身投げをした女があった。その女の亭主だと思うんだが、蓑笠をつけた男が、雨の降る中を、菱を分けながらさがしまわっていた……この湖では、死体があがったためしがないんだから、そんなことをしたって無駄な骨折りなんだが、いく日もいく日も、あきらめずにやっている……それを見てから、私の自然観にたいへんな変化が起った……それまでは、見たままの自然で満足していたものだったが、それ以来、ひどくひねくれてしまって、すぐ自然の裏を考える。この湖は
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