《つまぐろきちょう》の鱗粉のようなものがかすかについていた。
いずれ、こんなことになるのだろう。それはわかっていた。遠い将来のことだろうと気をゆるしていたが、意外にも早くやってきたので、久美子は愕然とした。
「疲労だね」
肋骨の下を念入りに触診してから、内科の主任は事もなげにいった。
「君達のグループは働きすぎるよ」
「うちのものはみな癌で死んでいるんです。父は肝臓癌でした……あたし黄疸なんでしょう?」
「黄疸というほどのものでもない。この冬、軽い肺炎をやったね。その名残りだ。しばらく仕事を休んで、うまいものを食ってごろごろしていれば癒ってしまう」
医務室のへっぽこ医者にわかるわけはないのだ。癌のことならこちらのほうがよく知っている。
「和歌山県と奈良県の癌死亡者は人口百万人にたいして千人以上で、比率の大きなことでは世界的に有名なんですってね……先生、あたし和歌山なんです」
内科の主任は虚を衝かれたような気むずかしい顔になった。
「家族的黄疸とでもいうのか、一家の中でつぎつぎに黄疸にかかる特異な体質がある。赤血球の構成が病的で、すぐ壊れるようになっているので黄疸にかかりやすいのだが、この型の黄疸は肝臓機能とは関係がない」
「そういう体は遺伝するんでしょうか」
「遺伝するだろうと考えられている」
これではまるで告白しているようなものじゃないか。癌研へ紹介する必要のないほど決定的な症状になっているのだと久美子は察した。
未だかつて死体があがったためしがないという深い吸込孔のある湖水がいくつかある。死んだあとで死体をいじりまわされるのが嫌なら、そういう湖でやるほうがいい。万一、死体が浮きあがっても、行路病者の扱いで土地の市役所の埋葬課の手で無縁墓地に埋められるのなら、我慢できないこともない。宇野久美子から宇野久美子という商標《プラウト》を剥ぎとってどこの誰ともわからない人間をつくるぐらいのことは、やればやれる。
湖はどこにしようかと迷っていたが、ある日、駅の観光ポスターの「夢の湖、楽しい湖へ」といううたい文句がひどく気に入って、伊豆の奥にあるその湖にきめた。
人間がましい恰好で、出窓の敷居に腰をかけて煙草を喫ったりしているが、実は人間の影のようなものにすぎない。プランどおりに事が運べば、明日中か遅くとも明後日の朝までには宇野久美子という存在は完全にこの世か
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