こをみても菜の花などはなかった。
「お父《た》ん、なにをいうとるなん? 土用に菜の花などあるかしらん」
「そうかのう。俺《うら》には菜の花が咲いてるように見えるがの」
間もなく父は黄疸になった。全身からチューリップ色の汗を流してのたうちまわり、夜も昼も絶叫して、阿鼻叫喚のうちに悶死した。
癌だった。原病|竈《そう》は不明だが、最後は肝臓に転移して肝臓癌で死んだ。祖父も父の兄弟もみな癌で死んだ。父は癌は遺伝しない。俺《うら》だけは癌では死なぬといい、久美子も久美子の母も、そうあるように心から祈っていたが、その父も不幸な死の系列から遁れることができなかった。
さほど遠くない将来に、いずれ自分もすごい苦悶のなかで息をひきとることになるのだろうということを、久美子はそのころからはっきりと自覚していたので、もし、すこしでもそういう予徴が見えだしたら、肉体の機能のうえに残酷な死の影がさしかけない前に、安らかな方法ですばやく自殺してやろうと覚悟していた。それが願望になって、心の深いところに凝りついていた。
三月三日の夜、雛祭にちなんだ特別番組があった。それが終ってから、仲間の一人とスタジオの屋上へ煙草を喫いに行った。
晴れているくせに、どこかはっきりしないうるんだような春の空に三日月が出ていた。あまり妙な色をしているので、久美子は思わず叫んだ。
「なんなの、あの月の色は」
「月がどうしたのよ」
「妙な色をしているじゃないの。黄に樺色をまぜたような……粉白粉なら肌色《オータル》の三番ってとこね」
「肌色でなんかないわ」
「黄土《おうど》色っていうのかな」
仲間は煙草の煙をふきだしながら、まじまじと久美子の顔をみつめた。
「いつもの月の色よ、灰真珠色《パール・グレー》……あなたの眼、どうかしているんじゃない」
月だけではなかった。塔屋の壁も扉もアンテナの鉄塔も、もやもやした黄色い光波のようなものに包まれていた。
心臓にきたはげしいショックで久美子はよろめいた。
「宇野さん、どうしたの」
「疲れたのよ。きょうは帰るわ」
アパートへ帰るなり、久美子は鏡の前へ行って眼のなかをしらべた。白眼のところに黄色い翳のようなものがついている。爪にも掌にもそれらしい徴候があった。
あわてて服を脱いで下着をしらべてみた。シュミーズの背筋にあたるあたりにあの不吉な黄色いシミが、爪黒黄蝶
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