えるという程度のことではないでしょうか。そのほうはたいしたことはないでしょうが、私が心配しているのは、あなたのことなんです……心臓衰弱の気味だから、乗物に乗るのは、ちょっと無理です。傍にいてあげられればいいのですが、病院の仕事があるので、私は夕方までに東京へ帰らなくてはなりません……母はあなたをロッジへ入れないなんて、愚にもつかないことをいっていますが、気になさらないで、ロッジで今日一日静かにしていらして、いい頃にお帰りになるように」
 言い憎そうに眼を伏せ、
「おしつけがましいのですが、今朝のようなことはしないと約束していただきたいのです。さもないと、私は東京へ帰ることができません。それでは困るから……」
 と、つぶやくようにいった。

 ロッジの二階の大池の部屋に運びあげられると、加藤主任がやってきて、そばの椅子に掛けた。
「やっと人間らしい顔色になった。一時は、だめかと思ったんだが」
 はじめからこんな調子でやってくれたら、逆らうことはなかったのだ。久美子は愛想よく微笑してみせた。
「なんのつもりで、呼吸《いき》のとまるまで水にもぐったりするんだ? 人騒がせにもほどがある。なにをしようと勝手だが、捜査の邪魔をすることだけは、やめてもらいたいね」
「はずみでやったことなんだけど……お手数をかけました」
「君には手を焼いた。とても面倒は見きれないから、さっさと、どこへでも行ってくれ」
 膝の上に書類をひろげて、
「いま、これを読むから、相違した点がなかったら、署名して拇印をおしてくれたまえ」
「それは供述書というやつなの」
「そんなむずかしいもんじゃない……捜査調書の抜萃……宇野久美子に関係のある部分だ。われわれの仕事は、確認という形式を踏まなければ体《たい》をなさないのだから、どうしようもないのだ。概略だよ、いいね……東洋放送の宇野久美子、すなわち君は五月二十日、郷里の和歌山市に帰る目的で、二十一時五十分、東京駅発、大阪行の一二九号列車に乗ったが、途中で気が変って……ここは君が供述したとおりになっている……翌、二十一日、三時五十四分に豊橋に下車。七時〇分の東京行に乗った。十一時三十分、熱海駅着、十一時四十分の伊東行に乗車、十二時十二分、伊東駅着……店名失念の駅前食堂で中食、遊覧の目的で徒歩で湖水に向った……二時すぎ、湖水の分れ道、その附近で雨に逢った……雨の中を
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