て来なかった。
「こんなこともあろうかと思って、いろいろ用意してきたのですが、お役にたったようで、私も満足です」
注射器に薬液をみたして久美子の上膊に注射すると、撫でさするようなやさしさで、そこを揉みつづけた。
「宇野さん、よけいなお節介をして、あなたを死なせなかったのを、怒っていられるんじゃないですか……もし、そうだったら、お詫びしますが、私としては、あの場合、どうしたってあなたを死なせるわけにはいかなかった」
意外なことを聞くものだ。久美子はムッとしかけたが、相手になることもないと思って、返事もせずにいた。
「引揚げようとすればするほど、深く沈もうとなさる。最後は、水藻にしがみついて離れようとしないんだから、強《きつ》かった」
隆の眼頭に、一滴、キラリと光るものを見て、久美子はあわてて眼をそらした。
「溺れかける父を見捨てて、泳ぎかえってくるような、非情な方だと思っていましたが、まったくのところ誤解でした……そんな方だったら、父にしても、あれほど強くあなたに惹かれることはなかったろうし……はじめから、わかりきったことだったのです」
久美子は、そっと溜息をついた。
「死んだ私の母のことは、あなたもよくごぞんじのことでしょうが、テレビではじめてあなたを見たとき、死んだ母の若いときの顔によく似ているし、名が宇野久美子だから、父のいうK・Uという女性は、あなたではないかと思ったことがあります。父には言いませんでしたが、私があなたのどこに惹かれるのか、よく知っているので、父の心情は、手にとるようにわかりました……父は不幸な再婚を後悔していたし、家庭がみじめになればなるほど、あなたのほうへ向いて行ったその気持も……」
久美子は、たまりかねて遮った。
「ああ、そのことなら、もう結構よ」
隆は、はっと眼の中を騒がせると、搏たれたように急に口を噤んだ。
「そんなことより臨床訊問……このうえ私からなにを聞きだそうというのかしら。言うだけのことは言いつくしたつもりだけど」
「あの連中がコソコソ言っているのを耳に挟んだのですが、あなたの供述書で逮捕状を請求したら、こんな不完全な内容で令状が出せるかと、令状係の判事に拒絶されたそうです。早急に死体があがる見込みがないので、伊東署の捜査本部を解散して、東京へ引揚げるといっていますから、訊問といっても、行掛り上、一応、形式をととの
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