るらしい。おかしなこともあるものだ。
記憶に深い断層が出来、時の流れがふっつりと断ち切られ、どういうつづきでこんなことになったのか思いだせない。昏睡し、しばらくして、また覚醒した。こんどはいくらか頭がはっきりしている。なにも見えなかったはずだ。眼の上に折畳んだガーゼが載っている。
ガーゼをおしのけ、薄眼をあけて見る。意外に低いところに天井の裏側が見えた。三方はモルタルの壁で、綰《わが》ねたゴムホースや、消火器や油差などが掛かっている。頭のほうに戸口があって、そこから薄緑に染まった陽がさしこんでいる。頭をもたげると、戸口を半ば塞ぐような位置にプリムスの後部が見えた……湖水の分れ道で久美子が拾われた、れいの大池の車だった。
「ガレージ……」
ロッジの横手にあるガレージのコンクリートの床の上にマトレスを敷き、裸身にベッド・カヴァーを掛けて寝かされているというのが現実らしい。
髪がグッショリと濡れしおり、枕とマトレスに胡散くさい汚点《しみ》がついている。足が氷のようだ。
「寒い……」
と呟きかけたひょうしに、咽喉のあたりに灼けるような痛みを感じた……それで、いっぺんに記憶が甦った。石倉に首を絞められ、水藻のゆらぐ仄暗い湖水の深みで必死に藻掻きながら、死というものの顔を、まざまざとこの眼で眺めた恐怖と絶望の瞬間。
「ああ」
久美子は悚《すく》みあがり、われともなく鋭い叫声をあげた。
まさに絶えようとする時の流れ……必死に抵抗していたのは、一秒でも長く命をつなぎとめようという、ただそのための藻掻きだった。
死ぬことなんか、なんでもないと思っていたのは、なにもわかっていなかったからだ。あの辛さの十分の一でも想像することができたら、自殺しようなどという高慢なことは考えなかったろう。
「あたし助かったんだわ」
自分というものを、こんなにいとしいと思ったことがなかったような気がし、久美子は感動して眼を閉じた。
「気がつかれましたね」
隆は久美子の顔をのぞきこむようにしてから、仔細らしく脈を見た。
「もう大丈夫ですが、覚醒したら、臨床訊問をするといっていますから、念のためジガレンを打っておきましょう」
久美子は無言のまま、マジマジと隆の顔を見あげた。なぜか、ひどく寛大な気持になり、怨みも憎しみも感じない。湖底の活劇は、遠いむかしの出来事のようで、いっこうに心にひびい
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