歩いていると、東洋相互銀行……通称、東洋銀行の取締役頭取……大池忠平の運転するプリムスが通りかかり、宇野久美子にたいして乗車をすすめた……宇野久美子はプリムスに乗ってそのまま大池所有のロッジに至った。一晩だけならお宿《やど》をしようというので一泊することにきめた。六時半ごろ大池と夕食をし、食後一時間ほど湖畔を散歩し、八時近く、ロッジに帰ると、大池はすでに二階の寝室に引取って広間には居なかった。宇野久美子はその後、大池忠平を見ていない……翌、二十二日、午前八時ごろ、湖水会の管理人、石倉梅吉が自転車で大池の在否を聞きに来たので、宇野久美子は不在だと答えた。同日、十時ごろ、石倉から、大池さんは湖水に投身自殺されたらしいという報告を受けた……だいたい、こんなところだ」
 そういうと、畳紙の写真挟みから手札型の写真を出して久美子に渡した。
「それが大池忠平の顔写真だ……湖水の分れ道で君を拾ったのがその男だったはずだ。写真を見て確認してくれたまえ」
 久美子は仰臥したまま、写真を手にとって見た。
「これはあたしを拾ったひととちがうようだ」
 よく似ているが、誰か別な人間の顔だ。
 プリムスに乗っていた大池忠平の顔には、生活の悪さからくる陰鬱な調子がついていたが、写真の顔はどこといって一点、翳りのない明るい福々とした顔をしている。額の禿げかたもちがう。プリムスのひとの額は、面擦《めんずれ》のように両鬢《りょうびん》の隅が禿げあがっていたが、写真のほうは、額の真甲《まっこう》から脳天へ薄くなっている。額のほうはいいとしても、首のつきかたも肩の張り方も、ここがこうと指摘できるほど、はっきりとちがうが、それを言いだせば、またむずかしくひっかかってくる。
 久美子は浮かない顔で考えこんでいたが、どうしたって真実を告げずにすますわけにはいかないので、思いきっていった。
「確認するもしないも、写真のひとが大池忠平にまちがいないのなら、ロッジにいたのは、確実にべつなキャラクターだわ」
 主任は眉をひそめて、背筋をたてた。
「大池じゃないって?」
「よく似ているけど、はっきりとちがうのよ」
 そうして、異なる印象のニュアンスを、できるだけくわしく説明した。
 主任は薄眼になって聞いていたが、やりきれないといったようすで、クスクス笑いだした。
「さすが、芸術家の観察はちがったもんだね。お話は伺った
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