それゃ、もうどうしたって、ね……なにか失礼なことをいっていますが、間もなく、落着くでしょう……あなたも気ぶっせいでしょうし、今夜はキャンプ村のバンガローで泊られたらどうですか。川奈ホテルでは遠すぎて、警察の連中が承知しないでしょうから」
そういうと、うなずくように軽く頭をさげて部屋から出て行った。
「ここから出られるなら、お礼をいいたいくらいだわ」
久美子は苦笑しながら呟いたが、いいぐあいにひきずりまわされているような、不安に似た感じからまぬかれることができなかった。
湖水に沿った道のほうでクラクションの音がした。
二時間ほど前、久美子が私服に附添われて湖畔へ出たとき、部長刑事から命令されて伊東のほうへ車を飛ばして行った連絡係の警官が帰ってきた。芝生の縁石《へりいし》のところで車をとめ、チラと二階の窓を見あげると、汗を拭きながらせかせかと玄関に入っていくのが見えた。またむずかしいことがはじまりそうな予感があった。
灰鼠《はいねず》の筋隈《すじぐま》をつけた雨雲の下で、朝、見たときのまま、ボートや田舟が、さ迷う影のように、あてどもなく動きまわっている。大池というスポーティな紳士の死体は、湖底のどこかで、ひっそりと藻に巻かれているのだろうが、死んだあとでもなお執拗に絡《から》みついて、久美子の運命を狂わせようとしている。大池の長男は、父の死体が揚るまでの自由、といった。たぶん、それにちがいないのだろう。いまは、わずかな息継ぎの時間。大池の死体が揚れば、訊問だの身許調査だの、うるさいこねかえしがはじまる。警察でも、大池を殺したとまでは思ってもいないだろうが、悪くすれば、すれすれのところまでいくかもしれない。これはもう、どうしたって避けることはできないのだ。
久美子は着換えをして運動靴を穿くと、ジャンパーの胸のかくしからコンパクトをだし、蓋の裏についている鏡をのぞいて、どんな訊問でもはねかえしてやる、図々しいくらいの表情をつくってみた。久美子自身は警察の連中を無視しているつもりだったが、こんなことをするようでは、やはり恐れているのだと思って、げっそりした。
「これはなんだっけ?」
コンパクトをジャンパーの胸のかくしに返そうとしたとき、なにか平べったい、丸く固いものが指先にさわった。指先に親しい感覚だ。
なんだろうと思いながら、とりだしてみると、アンチモニー
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