つきで額をにらみあげ、
「ふむ、どうしたんだろう。妙だな」
と独り言をいっていたが、なにか思いあたったようにうなずいて、
「大池さんは間違いなんかなさらないが、千慮の一矢ってこともあるもんだから……」
そういうと、自転車に乗って、湖の岸の道を、対岸のボート置場のあるほうへ飛ぶように走って行った。
どこかで小鳥の翔《かけり》の音がする。
壁煖炉の火格子の上に、冷えきった昨日の灰がうず高くなっている。湖畔の林の中にあるロッジの広間は、深い眠りについているように森閑としずまりかえり、煖炉棚の置時計の秒を刻む音だけが、ひびきのいい腰板《パネル》にぶつかっては、神経的に耳もとに跳ねかえってくる。
宇野久美子は火の気のない煖炉の前の揺椅子に掛け、行きずりに一夜の宿をしてもらった礼をいってここを出ようと、大池の帰るのを待っていたが、そのうちに、そんなこともどうでもいいような気がしてきた。
天井の太い梁も、隅棚の和蘭《オランダ》の人形も、置時計も、花瓶も、木の間ごしにチラチラとうごく水明りも、眼にうつるものはすべて、もうなんの情緒もひき起さない。できれば今日中にでも自殺しようと決意している人間にとって、事実、それらは完全に絶縁された別の世界のものだった。
「これ以上、待ってやることはない」
そこだけ深い水の色を見せている青々とした湖心に、ひとの乗っていない空のボートが漂っているのを見たとき、久美子は「おや」と思ったが、モヤイが解けてボートがひとりで流れだしたのかも知れず、おどろくようなことでもなかった。
湖水の対岸に、貸バンガローや売店や管理人の事務所を寄せ集めたキャンプ村がある。ボートで釣りに出たついでに、用|達《た》しでもしているのだろう。そのうちに、ほかのボートで漕ぎ戻るか、湖水の岸の道を歩いてくるかするのだろうが、久美子には生存を廃棄するというさし迫った仕事があるので、あてのない大池の帰りを待っていられない。今朝のような失敗をくりかえさないように、どこか静かなところで、じっくりと考えてみる必要があるのだ。
久美子は玄関の脇窓からさしこむ陽の光をながめていたが、とても昼すぎまで服が乾くのを待っていられない。手ばやく煖炉を焚しつけ、浴槽に放りこんでおいた濡れものを椅子の背に掛けならべると、今夜、身を沈めるはずの自殺の場を見ておこうと思って、二階の大池の寝室へ
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