とみえて、ボートはそこになかった。
ロッジへ帰ってピジャマに着換え、濡れものをひとまとめにして浴槽の中へ置き、気のない顔でコオフィを沸しにかかった。
陽があがると靄がはれ、すがすがしい朝になった。湖のむこうの山々の頂が、朝日を受けて火を噴いているように見えた。
久美子はひとりで朝食をすませ、所在なく広間で大池を待っていたが、八時近くになっても起きて来ない。
「どうしたんだろう」
気あたりがする。中二階へあがって行って、ドアをノックした。
「大池さん、まだ、おやすみになっていらっしゃるの」
返事がない。
鍵が鍵穴にさしこんだままになっている。
そっとドアをあけて、部屋をのぞいてみると、寝ているはずの大池の姿はなかった。
「なんだ、そうだったのか」
なかったはずだ。ボートを漕ぎだしたのは大池だったらしい。
そういえば、ボートの中に魚籠《びく》のようなものがあった。大池がこのボートで釣りに行くのだろうと思わなかったのが、どうかしている。
それにしても、大池はまだ釣りに耽っているのだろうか。久美子は窓をあけて湖をながめまわした。
朝日が湖面に映って白光のようなハレーションを起している。久美子は眼を細めて、陽の光にきらめく湖面を見まわしているうちに、やっとのことでボートの所在をつかまえた。
「ボートが流れている」
久美子が漕ぎだそうと思っていた湖心のあたりに、乗り手のいない空《から》のボートが、風につれて舳の向きをかえながら、漫然と漂っているのが見えた。そのそばに、赤いペンキを塗ったオールが浮いている。ただごとではなかった。
呼鈴が鳴った。玄関へ出てみると、「湖水会管理人」という腕章をつけた男が、自転車をおさえて立っていた。
「おやすみのところを、どうも……大池さん、昨日、こちらへおいでになられたんでしょう」
「来ています。なにか、ご用でしょうか」
管理人はペコリと頭をさげた。
「いいえね、お宅のボートが流されているので、ちょっとおしらせに」
「それはどうもわざわざ……」
「大池さん、まだ、おやすみなんですか」
「いらっしゃいませんよ」
「へえ?」
眉の間に皺をよせ、久美子の顔を見つめるようにして、
「いらっしゃらないんですか」
「あたしの眠っているあいだに、出て行ったらしくて」
「ボートで?」
「さあ、どうだったんでしょう」
管理人は真剣な眼
前へ
次へ
全53ページ中10ページ目
小説の先頭へ
文字数選び直し
久生 十蘭 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ
登録
ご利用方法
ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング