上って行った。
 寝乱した、男くさいベッドのそばをすりぬけて窓のそばへ行くと、天狗の羽団扇《はねうちわ》のような栃の葉繁みのむこうの湖水に船が四、五隻も出て、なにかただならぬ騒ぎをしているのが見えた。
 ボートや、底の浅い田舟のようなものに、三人ぐらいずつひとが乗り、一人は漕ぎ、一人は艫《とも》にいて網か綱のようなものを曳き、一人は舳から乗りだして湖の底をのぞきこみながら、右、左と船の方向を差図している。
「予感って、やはり、あるものなんだわ」
 雨降りのさなか、湖水に行く道で大池の車に拾われたとき、うるさいひっかかりにならなければいいがと、尻込みをしかけた瞬間があった。
「湖水会管理人」という腕章をつけた男が、千慮の一矢ということもあるなどといって、対岸のボート置場のあるほうへ自転車ですっ飛んで行ったが、こんな騒ぎをしているところから推すと、大池はボートで釣りに出たまま、湖水にはまって溺死したのらしい。
「厄介なことになった」
 久美子は窓枠に肱を突き、唇のあいだで呟いた。
 久美子のプランではキャンプ村のバンガローに移り、今夜、夜が更けてからボートで湖心へ漕ぎだすことにきめていたのだが、このようすでは、どうも今夜はむずかしいらしい。自分をこの世から消しとるという単純な仕事が、どうしてこんなにもむずかしいのかと思うと、気落ちがして、白々とした気持になった。
 ボートの艫に小型のモーターをつけた旧式な機外船が、けたたましいエンジンの音をひびかせながらロッジのほうへ走ってくる。黒々と陽に灼けたさっきの管理人が乗っているのが見えた。
「そろそろ、はじまった……」
 大池のピジャマとガウンを借り着した、しどけないふうな女を、管理人がどんな眼で見て行ったか、久美子にも察しがつく。
「それはまあ、どうしたって」
 苦笑いしながら久美子は呟いた。
 どうしたって父娘《おやこ》だとは見てくれまい。大池の生活に密着した、抜きさしのならない関係にある女だと、解釈したこったろうから、ここへ話をもちこんでくるのは当然だ。
 長すぎるピジャマのズボンとガウンの裾を、いっしょくたにたくしあげながら二階から降りると、久美子は玄関に出て管理人がやってくるのを待っていた。
 いい話だろうと、悪い話だろうとかまうことはない。うるさい絆から解き離されるためにも、どうせ聞かなければならないのなら、一分で
前へ 次へ
全53ページ中12ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
久生 十蘭 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング