はりついていて、なにか物音がするたびに、ワーンとすさまじい翅音《はおと》をたてて飛び立つのだった。どこからこんなに蠅が来たのだろう。季節は、もう十一月だし、すぐ地続きの青木のアトリエには、蠅などは一匹もいなかった。
「天井裏で、鼠でも死んでるんじゃないか」
というと、団六は、
「ああ、そうか。そんな事かも知れねえな」
と、呟きながら、キョロリと天井を見上げた。
一週間ほどしてから、また出かけて行くと、アトリエの周りには、乳剤のむせっかえるような辛辣《しんらつ》な匂いが立ちこめていた。
蠅は一匹もいなかった。しかし、今度は蝶々だった。
紋白や薄羽や白い山蛾が、硝子天井から来る乏しい残陽に翅を光らせながら、幾百千となくチラチラ飛びちがっている。そこに坐っていると、吹雪の中にでもいるような奇妙な錯覚に襲われるのだった。
青木は、家へ帰ると、女にいった。
「団六のところへ、こんどはたいへんに蝶々が来ている。行って見ろ、壮観だぞ」
女は、暢気《のんき》な顔で見物に出かけて行ったがしばらくすると、青い顔をして帰って来て、
「嫌だ。あんな大きな蛾って見たことがない……脂ぎって、ドキドキ
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