日の間どのくらい悶え悩んだか、説明したところで通じるはずはないからいわぬ。ただおれは人間が経験するであろう苦悩の最も深刻なものを経験したとだけいっておく。率直にいうが、おれはあの細君に愛されたい、おれのものにしたい。おれはあこがれ、渇望していまにも気が狂いそうになる。しかし、それはもとより不可能だ。芸術と賭博と、二つの愚かなもののために恋愛する資格を消耗してしまった。おれにはもはや青春も健康も精力も残っていない。のみならず彼女は人の妻だ。これは厳粛なことだ。おれの道徳はどんな理由があろうとそれを侵すことはゆるさぬ……非常に苦痛だが、なんとかしてこの感情を圧し殺してしまうつもりだ」
自分はついにひと言でも発することができなかった。低調な精神をもってこの壮烈な魂になにをいいかけようというのか。そしてここに明瞭な運命の初徴を見た。依怙地《いこじ》なまでに無器用なやりかたを。
一、その夜部屋へひきあげようとすると亭主が、「このごろ南京虫がふえてやりきれぬから、部屋を密閉して燻蒸消毒をするつもりだ。ついでだからあなたの部屋もやってあげましょう。二日だけ近所のホテルへでも行ってくれればすむのだ
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