、いまタルジュ事件について話していたところだったといった。しかしその時の実感によれば、明らかにそれ以外の非常に険悪ななにか犯罪に類したことを話しあっていたのではなかったかというような気がした。
 第二はタルジュ事件に対する夫婦の興味のもちかたである。普通にわれわれがもつ社会的な興味の度を超えた異常な熱心をあらわし、しかも話題の中心は毒殺とかというところにあった。第三は毒物学の本である。自分がこれをとりあげたとき、夫の眼にはあきらかに狼狽の色がうかんだ。しかるに妻君はそれがこの場所にあるゆえんを沈着に釈義した。それはあまりに沈着すぎるためにかえって相手に疑念を抱かせるような種類の沈着で、妻君の意志を裏切ってその説明が虚偽であることを明白に申し立てていた。するとあの毒物学の本はどういう目的のため購求されたのであろう? 人間の頭の発展の仕方に幾通りも特別なスタイルがあるものではない。悲境を打開する方法を勤勉に求めずに賭博に求めるような困憊《こんぱい》した性格においては、渇望するものを手に入れる方法として容易に殺人を思いつくであろう。
 さてここまで考え来たったところで、また新たな想念に煩わさ
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