Q台の横にかけさせると唇のはしに皮肉な皺をよせながらいった。
「おれは自殺するつもりで、毎晩あの雨受けの腐れ水をのんでいたんだ。これ以上生き長《なが》らえていると、賭博の研究で次第に消耗してしまう。そんな死に方では死にきれなくなったんだ。おれのシステムが完成して千万の金をもうけたっておれの肉体は過労で困憊して、その金をバラ撒く力さえ残っていないだろう。芸術の夢と、賭博の幻にとりつかれ、四十三年、恋愛一つせずに克服してきたが、たとえどのような富が将来に約束されていようと、このうえこんな生活をつづけるのがいやになった。自分の胸にいささかでも恋愛を感じ得るやわらかな情緒の残っているうちに、人間らしい死にかたで死にたくなった。賭博のためでなく、恋愛のために死にたくなったんだ。生涯たった一度の恋愛をし、愛人に看護されながら死ぬなら、それこそ本望でないか、それを、あの夫婦が無闇に介抱してとうとう治しちまいやがった」といった。
 一、二日ほどのち、夫婦がお別れだといって部屋へはいってくると細君のほうが、懺悔したいことがあるといいだした。
「あたしたち六階の先生を殺そうと思っていたんです。なんの目的かいわなくともおわかりでしょう。でもそれはかんがえるほどたやすいものではありませんでした。いざやろうとなると、二人で顔を見あわせて溜息をついてしまうんです。そのうちにあのかたを看病することになっていつでもやれるようになりましたが、そうなるとあたしのいないうちに夫がやりはしまいか、容体がすこし悪くなれば自分が毒を飲ましたと思われはしまいかと、お互いにさぐりあい監視しあって、敵同志のようになってしまったんです。そのうちに、こんなに苦しむならたとえ餓死をしてもよそうといいだしました。そこへあの急変でしょう。このまま死なせると、あたしたちの思いで殺したようになるので死に身に看護してとうとうなおしてしまいました」
 亭主はこれから白耳義《ペルジック》のスパ(温泉場)へ行って自分のシステムでルウレットをやって見ること。大勝する気なぞない。毎日細く食べて行けるだけ勝てば満足であること。「もしいけなかったらそのときは夫婦心中をするんです」といって細君のほうへ振返った。細君は夫の手の上に手をのせた。それが同意のしるしでもあるように。
 次の夕方、夫婦は白耳義へ発っていった。タクシーの窓の中で手を振りながら
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