極微量から大量へと漸次増量服用し、われわれと共に致死量を飲んでも生命に危害を及ぼさざらんとする目的である。自分は急いで亜砒酸の解毒薬を調べてみた。最も効果のあるのはメチレエヌ青 〔Bleu de Me'thyle`ne〕 の静脈注射である。メチレエヌ青……しかしそれをどうして手に入れるか。残された方法としては、対抗的に自分もまた亜砒酸の極微量を増量服用することである。命を賭けてまで観察にふけるほど愚ではない。
 一、入ってゆくと亭主が飯ごしらえをしていた。妻君はとたずねると六階の看護をひきうけてそっちへ行っているとこたえた。役にも立たぬ一冊の古手帳のために夫婦は惨酷なる機会をつかんでしまった。彼が毒殺されるのはもはや時間の問題である。たぶん亜砒酸の過度の定服によって身体の諸機能を退行させられ、消えるように死んで行くのであろう。六階へ行くと彼は額にうっすら汗をかいて眠っていた。はかない冬の夕陽が顔にさしかけ一種蒼茫たる調子をあたえている。顔は急に彫が深くなり、鼻が聳え立っているようにみえる。抜群の精神と少年のごとき純真な魂をもったこの男は低雑下賤な夫婦のために殺される。自分は心のなかでいった。貴様はもう死ぬ……交会の日は浅かったが年来の友と死別するような悲哀の情を感じた。この男も薄命であった。
 つぎの日の夜あけごろ。
 前の廊下を駆け歩くあわただしい足音をきいた。扉《と》をあけて走ってゆく妻をつかまえてきくと、彼が頑固な嘔吐をはじめたので医者を迎えに行くところだとこたえた。
 行ってみると彼はとめどもなく嘔吐しつづけていた。もはや吐くものがなくなり薄桃色の液を吐いていた。
 夜あけ近く六階へあがって行った。扉をひきあけると思いがけない光景が展開した。夫婦は睡眠不足で赤く眼を腫らして緊張したようすで動きまわっていた。妻君は湯タンポを入れ換え、襁褓《おむつ》をひきだし、亭主のほうは裸の胸へ彼の足をおしつけて体温で温めようと一心になっていた。ときどき彼の顔のほうへ耳をよせ、彼の呼吸がすこしでも安まり、彼の顔から苦痛の色がうすらぐと夫婦は涙ぐんだ眼でうれしそうにうなずきあうのだった。困惑した頭では、この成りゆきに解釈をあたえることができず茫然たる心をいだいて部屋へ帰った。
 一、二週日にわたる夫婦の看護で、彼は類似赤痢から奇蹟的に命をとりとめ、寝台のうえに坐っていた。自分を
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