画には驚嘆の念を禁じ得ない。その意図を知りつつ部屋を明けわたせば、積極的に彼等の計画を助けたことになる。次の朝、いま至急の勉強中であるから部屋を動くわけにはゆかぬと謝絶し、その足で六階へのぼって行くと、彼は風邪の気味で赤い顔をして寝ていた。そして、これでは食事にもさしつかえるから、妻君に病中の用事を達してもらいたい、君から頼んでくれるわけにはゆかぬかと、臆し、赤面しながら、極めて遠廻しにその意味をいった。
彼の不憫な恋情がいとしまれてならぬ。その苦しい心の中はもとよりよくわかるが、夫婦にむざむざ機会を与えるような取り計いは出来ぬ。「それくらいのことで、妻君を煩わす必要はない。おれがやってやる」といった。果して彼は落胆したようすで、以来非常によそよそしくするようになった。無情を怨むような眼つきをし、時には自分の来ることを好まぬような態度さえ露骨に示す。
一、三日ほど後の夜、妻君が六階の住人を夕食に招きたいから言づてを頼むといった。自分さえ喰えないやつらがなんで人を招く。また新奇な方法を案出したと見てとったので、彼は風邪気味だから招待には応じられまいと告げた。夫婦が彼に接触する口実になりはせぬかとおそれたのである。
次の夜、はいってゆくと妻君が寝床で丸薬を飲んでいた。丸薬の箱にポリモス錠と書いてあった。病気かときくと、「このごろ何となく元気がないから強壮剤をのんでいる」とこたえた。食事ののち、夫婦に背を向けて新聞に読み耽っていたが、そのうちになにげなく顔をあげ、ピアノの黒漆に映じている異様なものを見た。夫婦は互に目でうなずき、瞋恚《しんい》と憎悪のいり交ったるごとき凄じい視線を自分のほうに送っているそれであった。
生れて以来、いまだ感じたことのないような深刻な恐怖のうちに夜を明かした。徴候を察知しようとするあまり、いささか打診しすぎ、そのために夫婦に企図を察しられてしまったのである。それはまだ疑いという程度のものであろうも、危険の程度は同じである。夫婦の計画を知っていると感づいたら、たぶん生かして置くまい。そのためには機会はあり余るほどあるのである。
一、翌朝「売薬処方便覧」でポリモス錠の処方を調べ、その丸薬には強壮素として亜砒酸《あひさん》の極微量が含まれていることを知った。彼女がなんの目的で亜砒酸の極微量を服用しているか、その意図はすでに明瞭である。それを
前へ
次へ
全21ページ中17ページ目
小説の先頭へ
文字数選び直し
久生 十蘭 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ
登録
ご利用方法
ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング