黒い手帳
久生十蘭
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【テキスト中に現れる記号について】
《》:ルビ
(例)薄命《ファタール》
|:ルビの付く文字列の始まりを特定する記号
(例)千回|骸子《さいころ》
[#]:入力者注 主に外字の説明や、傍点の位置の指定
(数字は、JIS X 0213の面区点番号、または底本のページと行数)
(例)※[#「插」でつくりの縦棒が下に突き抜けている、第4水準2−13−28]
〔〕:アクセント分解された欧文をかこむ
(例)〔Bleu de Me'thyle`ne〕
アクセント分解についての詳細は下記URLを参照してください
http://www.aozora.gr.jp/accent_separation.html
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黒いモロッコ皮の表紙をつけた一冊の手帳が薄命《ファタール》なようすで机の上に載っている。一輪※[#「插」でつくりの縦棒が下に突き抜けている、第4水準2−13−28]しの水仙がその上に影を落している。一見、変哲《へんてつ》もないこの古手帳の中には、ある男の不敵な研究の全過程が書きつけられてある。それはほとんど象徴的ともいえるほどの富を彼にもたらすはずであったが、その男は一昨日舗石を血に染めて窮迫と孤独のうちに一生を終えた。
この手帳を手にいれるためにある夫婦が人相の変るほど焦慮していた。けっきょく望みをとげることが出来ず、恨をのんで北のほうへ旅立って行った。そしていい加減なめぐり合せで、望んでもいない自分が、遺品といった意味合いでうやむやのうちに受取るような羽目になった。運命とは元来かくのごとく不器用なものであろう。
今朝着くはずであった資料の行李は事故のために明日まで到着せぬことになった。焦《いら》だたしい時間をまぎらわすためにこの黒い手帳をめぐって起った出来事をありのままに書いて見ようと思う。彼とある夫婦の間の微妙なもつれについてである。
当時、彼は六階の屋根裏に、夫婦は四階に自分は中間の五階に住んでいた。この二組の生活を観察しようと思うなら同じ数だけ階段を昇降するだけでよかった。自分は階下で夫婦と談話し、すぐその足で六階の彼のところへ上ってゆく。互いに関知せず、そのくせ微妙に影響し合う興味深い二つの生活を自分は両方からあますところなくながめていたのである。
自分は文学者ではないから面白いようにも読みやすいようにも書く
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