アとは出来ぬ。が、ものを見る眼だけはたいして誤らぬと信じる。自分は見たままに書く。これを書く動機は充分にあるのだが、それまでうちあける気はない。懺悔のためとも感傷のためとも、勝手にかんがえてくれてよろしい。

 一、この年の中頃から為替《かわせ》は不幸な偏倚をつづけていた。三月目《みつきめ》にはむかしの半分に、半年の終りには約三分の一になってしまった。留学にたいする自分の年金は一定の額に釘付けされているので、研究に必要な所定の年月だけパリに止まるためには為替の率に応じて生活を下落させてゆかねばならぬ。そういう理由によって半年の間に三度移転した。一度毎に趣味が悪くなった。三度目のこの宿はこれ以上穢くては人間として面目を保つことは出来まいと思われるほどのものだった。
 手すりのかわりに索をとりつけた穴だらけの暗い嶮《けわ》しい階段を非常な危険をおかしてのぼってゆく。五階のとっつきに、その部屋があった。鉄棒をはめた小窓がひとつ。瓦敷の床、むきだしの壁には二三日前の雨じめりがしっとりとしみ透って、ところどころに露の玉をきらめかせている。これを人間に貸そうというのである。着想のすばらしさに感動してその部屋を借りることにした。為替の下落もよもやここまでは追いつくまい。とすると当分移転のめんどうだけははぶけるからである。
 寝台に腰をおろしてなすこともなく腕をこまぬいでいると、扉を叩いて、びっくりした子供のような一種不可解な顔をした男がはいってきた。髪は遠慮なく薄くなりかけているが、顔のほうは二十一、二歳でハタと発達をとめたものとみえる。
 自分の部屋を訪れるために無理に上衣の釦《ボタン》をかけてきたのだろう。その釦を飛ばすまいとして一生懸命に下っ腹を凹ましているふうだった。通例の挨拶の後、舌ったらずな口調で「わたしはこの階下に住んでいるものです。お差支えなかったら、おちかづきのしるしに晩餐をさしあげたい」といい「なにしろ今日は、降誕祭《クリスマス》前夜のことだから、ひとりで夜食《レウェイヨン》をなさるのは、さぞ味気《あじけ》ないだろう。それに、妻も非常に希望しているから」という意味のことをきわめてぼんやりとつけくわえた。
 一、夫婦の部屋は貧困なりにやはり家庭だとうなずかせる和《なご》やかな雰囲気があった。その中にたいへん小柄な女が立っていた。これが妻君だった。前髪を眉の上で切
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